原作みながらアニメみる〜『青い花』第二話〜

差分に気づくことがおもしろいということ

 去年くらいからアニメみはじめて、そんで、俺は漫画からもかなり遠ざかっていたので、アニメはほとんどアニメとして独立してあったわけで、『かんなぎ』にしろ『けいおん!』にしろ、原作と比べてどうこうってのはなかった。そりゃあ、まあ、原作が気にならないかといえば嘘になるし、それぞれ完結したら手にとってみたいって気はしているけれども、はっきり言って漫画買う金がない。だから、ちょっと「すっぱいぶどう」という感もありながら、「アニメはアニメで独立してるんだよね」ということにしていたのだ、自分の中で。
 でも、『青い花』は興味ゆえに買ってしまった。一巻と二巻。アニメもみた、録画した。一話と二話。それでもって、第二話をみながら、やっぱりせっかくだからって、漫画と見比べたりしてみた。
 そんで、やっぱりなんかこの、ひとつの作品が別のメディアに移るところのおもしろさみたいなのがあるわ。その、「原作よりよかった」とか「アニメの方がおもしろい」とか、そういう個々の作品の優劣っつーか、そういうもんでなしに、移り変わらせること自体のおもしろさ。小説の映画化でも、ゲームのアニメ化とか、まあメディア間によっていろいろ差はあれども、まあ、その出来不出来でなしに、なんつーのか、元のものと別の表現とか、付け加えたり、端折ったりというところに、移しかえた人間の意図が見えるじゃん。
 で、だいたい、わしのようなボンクラは、あんまり、その、作品とかみてても、「うあー」とか「おおっ」とか思うばかりで、「ここでこの角度のショットはこれこれこういう意図がある」とか、「この風景にうつりこんでいるこれは登場人物のあれを象徴している」とか、みながらそんなのわかんねーじゃん。で、評論とか読んではじめて気づいて、まあ俺はともかく、小説にしろなんにせよ、寓意とか暗喩とかが苦手で、文芸評論とか解釈とか読むと目から鱗が落ちまくってたいへんなんだけれども、まあしかし、そのあたりの「お、これはなにか操作したな」という感じを、メディアの移しかえではわかるわけじゃん、なんつーの、差分として。
 ただ、もちろん、わしのようなボンクラには、意図とかわからん。差分があることはわかる、その差分を見つけることが、ちょっとおもしろい、ただそれだけのことだ。そんなのがおもしろいのか? というとなんだかわからんが、なんかおもしろいんだからいいだろう。もちろん、『青い花』のように、漫画もアニメも魅力的とあらば、そりゃあおもしろいだろう、と。

俺にとってはありがたいおぎない

 それで、やっぱりあれだ、演出上の意図とか、そういうあたりはさっぱりわからん。言葉にできない。キャラの性格とか、話の進ませ方とか、そのあたりも、もっと長くみなければわからんかもしれない。シンジ君だって、破まできて性格の変化がはっきりしたような話だ(そのよしあしは別として)。
 なので、しょうもない漫画読解力低下中の俺の、「ああ、これはわかりやすくてありがたい」という演出(演出って言葉でいいんだよな?)について。画像は、『青い花』第一巻より引用。
 まずはこれ、万城目ふみ(俺がアニメの感想とか書くときに頭を悩ませるのは、キャラをどう呼ぶかだ。これについてはいつか考えてみたい)が、うっかりバスケ部の杉本恭己を文芸部員と勘違いして……というところ。俺、これ、そのあとのふみと奥平あきらの会話読んでも、いったいふみがうっかり「恭己につられて入ろうとした文芸部に、恭己がいないのに入ってしまった」のか、「文芸部だと思ってたのに、恭己のいるバスケ部に入ってしまった」のか、正直、どっちだかわからんかった。松岡女子高校で、断りの会話入れるところまで、どっちになっちゃったんだ? って思ってた。いきなり、演劇の話になっちゃうし。
 それがこれ、アニメの方だと(アニメの方も画像用意すればいいのに)、ふみの入部届、バスケットボール部って書いたやつが出てきて、「ああ、バスケ」ってすぐにわかるんだよね。そのあたり、スッとイメージを挾み込めたり、重ねられたりする、アニメならではなんだろうか。

 そんで、俺が自分に絶望したのがこっちで、俺、この「お式」の意味、ようわからんまま漫画読み進めてて、アニメの方ではじめて「あー、あー、千津の結婚式」って思ったの。これはひどい。俺はひどい。重要なところじゃん。なんつーのか、お母さんが黒い服着てるから、「喪服?」とか思ったりしてさ。きゃーはずかしい。
 で、アニメの方は、例の「結婚おめでとうケーキ」とか、重ねて出てきたから、ああ、結婚式、ってさ。ひでーな。つーか、気になったらわかるまで読み込めよ、俺、みてーな。

つーわけで、そんなところなんだけれども

 そんでまあ、俺が何をいいたいかというと、別に原作がわかりにくいとかいうんじゃなくてさ、まあ、俺に理解できるちがい、みたいなところの話であって、まあなんでもいいんだけれども。つーか、「アニメだと登場人物の内面の声、モノローグがバッサリなくなってるな」とか、そのあたりのほうが、なにか考えられるようなところかもしらんけど。
 でもなんだ、なんか台詞回しの、微妙な違いなんだけれども、それは原作の方が好きだな。なんつーの、志村貴子節とまでいえるかどうかわからんけれども、すごい日常会話風かもしれないけれども、妙になんつーのか、こなれていないというか、なんというか。そのあたり、アニメの方はわかりやすくなっていて、それはまた、言葉を文字(+絵)で伝える漫画紙面と、声で伝えるアニメ脚本の差、みたいなところもあるだろうし。

(ちょっと話逸れる)
 そういや、こないだなんかラジオ聴いててDJが言ってたんだけれども、ラジオで話す中では、あんまり漢語は使わない方がいい、みたいな。たとえば、「購入」、「購買」でも通じるだろうけれど、話言葉では、「買った」、「買いました」の方がよく伝わる、みたいな。そのあたりは、いしけりあそび先生が、漢字の壁になやむ外国人とのやりとりみたいなところでも触れていたんだけれども、そういうあたりはあるんだろうと思う。
 ただ、俺は、「漢字は日本語に深く刺さった棘」というよりも、なんつーのか、日本語の成り立ちから漢字は日本語だったというか、「われわれの言葉である漢字がたまたま中国で生まれた」くらいの、なんつーのか、そこまで漢字を、漢語を日本語から切り離せるかどうかというのには疑問で、もちろん、用字、用語の工夫とかでより多くの人につたわりやすい言葉づかいをすることは大切だと思うが、「そもそも日本語ではない漢字」とか、「漢字は障壁」とだけすると、なんつーのかその、それはしかし、日本語自体の否定とはいわんが、日本語はそもそも漢字と不可分じゃないのか、的な、そのあたりは石川九楊が『二重言語国家日本』で言ってたことの方がしっくりくるところはある。
 もちろん、だからといって、漢字による言葉のバリアや、漢字習得のむずかしさについて無自覚でいいとか、なんにも気にしなくていいんだ、みてえなことは言わない。言わないけれども、もしも漢字廃止をうたうならば、それは日本語にとって道具一つを外すとか、そういうレベルでなく、日本語の半身を引きはがすというか、根本からぶっこわすくらいの、そういう覚悟のものだと思う。すごい血が流れる。
 で、俺はそのばかでかい流血についやすコストを考えるならば、なにかもっと技術的に、テクニック的に、意思疎通の方法を進化させる、そっちの方が、はるかにナイスなんじゃないかと思う。その結果、漢字というものの使用頻度が下がるならば、それは言葉の変化のひとつというだけだし、そうでなくて、意思疎通の自由化と漢字が並び立って阻害し合わないなら、それもそれでいい。そんな風に思う。
(話逸れ終わる)
 閑話休題、いや、まあ、そのあたりも、なんつーのか、なんか俺の好きな、そうだ、『ロスト・イン・トランスレーション』的な、そのおもしろみがあったりして、もちろん、『青い花』は漫画として、アニメとして、百合として、すげえ好きなんだけれども、そのあたりについて今回は書いてみました。おしまい。

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