すばらしい悪文の躍動、あるいは組違い二等の悲劇について

すばらしい悪文の躍動

拝啓
房之介さま
突然のブログへの書き込みに驚いております。
こういった書き込みことで、身内の騒ぎとして社会的に意味があるのなら兎も角、私としては恥ずかしい限りです。
純粋に、個人が作る財団は現在では存在しておらず、また親族が所有する財産でもありません。私自身、ただただ世の中の道徳心や文化に対する考え方が薄れていて、曾祖父もきっと作家として生業とした時、「世の中の為に何かを残したい」と思ったに違いありません。
貴方や他の親族が今迄、「我が国の共有財産?」とやらを糧に執筆や活動していることも世の中の人は「社会貢献もせず、生計立てているんだ」と悔やんでいる。
 また、小職の周りに関係する氏名も実名で取り上げたりと個人的には、非道な姿を目にしました。
ちなみに、夏目沙代子氏は坂田氏ではございませんし、中村氏も実名とは関係ございません。そして、私が評議員に入って頂いたのは、沙代子氏は父の伸六の遺品類や漱石の資料が存在する為、まだ公式に作った記念館がない為、肖像物など公に正しい方法で提供するシステムを作りたいと思っているところです。
 これ以上、活動の邪魔になることは、お避け頂き当ブログの全文文章を削除いだだきます様、心からお願い申し上げます。このような形で、回答することは誠に心苦しいことです。   夏目一人

「夏目漱石財団」なるものについて:夏目房之介の「で?」:オルタナティブ・ブログ

 まず、リンク先の主題とは関係ないかもしれない話をする。この書き込みことが、夏目一人氏によるものかどうかもわからないが、ただ、ともかくこの文章には飲まれた。そんな話だ。やられた、という感じがする。なにかすばらしい詩を見つけたような気になった。俺が愛してやまないたぐいの文章とはまさにこういったものだ。
 これは皮肉や揶揄じゃない。どう説明していいかわからないが、俺はこういう文章を書けるようになりたいと思う。なんだろうか、俺は文章がうまくなりたいなどとは思わない。だけれども、こういう文章を無自覚に書けるようになりたいと思う。俺は、今まで、仕事などで、いろいろの人のいろいろの文章を読んできたが、すさまじいフックを持つ文章というのは、こういうものだ。「うわ、すごい!」と思う。正直。
wikipedia:夏目一人

(なつめ かずと 1972年7月6日 - )

 そしてまた驚いたのがこちらだ。いや、まだ件の書き込みがこの方のものかどうかはわからない。わからないが、今のところ夏目房之助氏によって削除はされていない。それを前提に、とりあえず同一人物であることを前提にすると、夏目一人氏はまだ若いと思われます。個人的な体験を基に言わせて頂ければ、斯様な文章の手癖は、年輩の方によって多く見られ、若い人では中々発見できない癖です。一体、如何様にしてこの言語感覚を若年にして入手したかと、そして、私については羨望に違いありません。

組違い二等賞の悲劇

 此処からは、私事を披瀝いたしますが、私の母は夏目漱石とは関係ありませんが、先日、「買った宝くじを調べていたら、二等賞と同じ番号だったが、組違いだった」と言いました。二等でも、一億円だとか五千万円という高額当選金の桁ではあるが、兎も角、一等賞とは違い、組違いでは一円にも成らないという為、大変悔しい思いをしたと仰った。
 小生は今迄、本件の様な悔しい思いを甘受することを恐怖し、宝くじを大量購入するようなことはないのです。しかし、母はただただ宝くじの二等が残念だとアッケラカンと言いました。そして私が思慮を巡らしたのは、上の夏目氏騒動と呼んで、差し支えなければこの母のことを思い出したのです。
 勿論、小生は、夏目房之助氏の事を、文豪夏目漱石の孫にあたられる血筋の方であるということは存知しておりましたが、それ以前に、世間的に著名な漫画評論家として、著作や漫画夜話などを通じて知られていたのです。そして、私は夏目氏の夏目漱石氏との関係について著述する本については未読であり、申し述べあげることの出来ない話であるが、孫と曾孫では、受け取られる物、また社会世間から位置付けによる名誉、名声、財産に差があると推測できるのであります。
 その様な想像力を巡らせた場合、兎も角一人氏の立場に立つ場合、その為に、何か悔しい思いをしているかもしれないということだ。もちろん、私は一人氏についても、どの様な人生を歩まれてきた方か判読できないが、Wikipediaに「この記事は、広告宣伝活動のような記述内容になっています」と罵倒されつつも、一項目の人間であるという事もあり、社会貢献をしていると思っているところです。そして、これは最早一般論という事になるが、若しも著名な親戚やそれが残す遺産乃至遺産的な物について、等親の僅かな違いが大きく違いを原因とする場合、これは組違いによる悲劇の様なことかもしれないということだ。
 再度明確にするが、これは最早夏目氏の話から離れた話であるが、誰か著名な人間の子孫に生まれるということの僥倖と偶然によりまた富や何かで恵まれている(繰り返すが夏目氏がどのような相続をしているかは存知せぬ、無関係のこと)、或いは、偶然、一寸した恵まれていない差というものの、理不尽の幸運と、理不尽の不幸の後者の或いは普通に生まれる(著名人とは縁無き家柄)事は、組違いの宝くじの様であってまったく、縁のない数字よりは幸運に近いものの近いが故に悲劇的であるということです。
 私はその後者の悲劇の大きさという物はときにアッケラカンと笑って済ませられる物でなく時に、骨肉の争いといった本当の現実的悲劇の発言に及ぼすと想像し慄然の想念にとらわれると思うのです。