加藤尚武『戦争倫理学』を読んだ

目次(不戦条約〜以降は俺が今打った。目次くらい省略しなきゃいいのに)

  • 戦争に関する正気とは何か
  • 戦争の二種類のルール―戦争目的規制(jus ad bellum)と戦闘経過規制(jus in bello)
  • 連続テロに対する報復戦争は正当か―私の第一の反戦メイル
  • 国家という猫には誰も鈴をつけられない―トーマス・モアの処刑とグローティウスの戦争論
  • アメリカの良心は「ヒロシマ」に「ノー」と言った―ロールズの原爆投下批判
  • ゲルニカを忘れないで―私の第二の反戦メイル
  • 鉛の兵隊さんはどうして美しい制服を着ているのか―傭兵軍から国民軍への転換
  • カントの「永久平和論」
  • 人は共和国のために命を捧げる―ヘーゲルの考えた国家と戦争の関係
  • 戦争をした日本は有罪か―「東京裁判史観」と東京裁判の問題点
  • 不戦条約のパラドックス―すべての戦争は違法である
  • 集団的自衛権」は自己矛盾か
  • ガンマンの正義―相手の先制攻撃を見てから撃つ
  • 日本国憲法九条の問題点―読んで分からない憲法は変えるべきだ
  • 平和は消極的な状態か
筑摩書房 戦争倫理学 / 加藤 尚武 著

はじめに

 まちがって二冊買ったから、と一冊まわってきた。同じ著者のなんとか倫理学という新書も、ずいぶん昔にまわってきたような気がする。著者の名前の読み方はしらなかった。読んだのは一週間くらい前、一気に。ちょっと気になっていた「ヒロシマ」の話など出てきて興味深かった。また、このあたりのことについて、俺はろくに新書一冊分も知らないので、とりあえず未知の単語を学ぶような方向で読んだ。いろいろな考え方、筋道が紹介されており、それに対して著者がちくりと言うスタイル。まあ、著者がどういう人かようわからんが、ともかく、いくらかは知ることが増えたように思う。たまには、自分で買い求めた本以外を読む、というのはいいものだ。どうしても偏る。実家があって、父親のすごい量の本棚があったときには、そのあたりいろいろのランダムな出会いもあったものだが。
 で、初めて見た、気になった言葉について覚え書き。

戦争目的規制(jus ad bellum)と戦闘経過規制(jus in bello)

 戦争倫理学にとってのもっとも基本的な枠組みとやら。はじめて見た。単語。ジュース・アド・ベルムとジュース・イン・ベロと読むらしい。ラテン語。戦争倫理っつーか、なんつーか、そういうものについて、まずここんところで二つにざくっと分けなきゃいかんと。

 戦争目的について完全に自由であると主張する学説(無差別主義)は存在するが、戦闘経過について掠奪も強姦も虐殺も認められるという学説は存在しない。

 戦闘経過についての学説、というのもなんだかようわからんところもあるが、ともかくそういうこった。

 戦争目的規制に関して、立場をおおまかに分類すれば、絶対的平和主義、戦争限定主義、無差別主義という三種になる。

 絶対的平和主義は、自衛権すら放棄。限定主義は、目的に正義があればいいといった考え方。でもって無差別主義。

 無差別主義の戦争観が発生する地盤は、「上になにもいただくことのない最高権力としての国家」という主権性である。

 そんでもって、その「最高権力としての国家」が生まれたのは、キリスト教支配下から独立したともいえるヘンリー八世んときであって、トーマス・モアの冤罪死があったうんぬん。

ロールズの原爆批判

 ようしらないが、wikipedia:ジョン・ロールズという人の原爆批判。その論旨は。

 「一般市民は、極限的な危機の場合を除いて、直接の攻撃を受けることがあってはならない」という原則の例外規定「極限的な危機」に該当しないという二段がまえの論法になっている。

 カート・ヴォネガットが『タイムクエイク』でこう書いたところだろう。

いま、空にいるのは自分たちだけだ。もう日本には飛行機が残っていないので、戦闘機の護衛もいらない。戦争は終わり、あとは事務処理だけ。この状況は、あえていうなら、≪エノラ・ゲイ≫が広島を火の海にする前からすでにそうだった。

 こんなときに、原爆で一般市民を殺しちゃいけねえってこと。
 でも、このロールズさんの考えでは、「極限的」なら一般市民への攻撃もやむを得ないとなる。その例として、イギリスによるドイツ爆撃が挙げられてるそうだ。

 第二次大戦中、イギリスがハンブルクやベルリンの市街地を爆撃して当然と見なされるような時機は存在したのだろうか。答えはイエス。ドイツの優勢な戦力に直面したイギリスが、孤立と絶望の淵に立たされていた期間があったからである。

 そうなると、何が「極限的」で、何がそうでないかとかの判断っつーのは、どうなんだってことになるわな。原爆についてだって、後からだから言えること、みたいな面はある、と著者は指摘する。

 こういう言い方は、戦争が終わってるから可能なので、現に戦争が行われているときに、「戦争の勝敗は事実上決まっている」という判断が下せるかどうかは問題である。

 ……あー、この調子だと長くなる。そんなに時間ねーし。あー、[エリザベス・アンスコム](この名前はかっこいい)という人の考え方。

 アンスコムの絶対正義は、正義の戦争における戦闘行動が非戦闘員を巻き添えにする可能性をぎりぎりいっぱい正当化可能なものとみなした上で、非戦闘員を含む殺害を「意図すること」を絶対的に無条件に禁止する。

 すなわち、なんつーか、戦争における残虐行為を指弾する場合でも、単に反対だ禁止だっつーのではなく、いろいろな考え方があるのだと思った(←小中学生のころ、こういう感想文をよく書いたような気がする)。

パルの無罪論

 東京裁判におけるパル判事(パール判事)の日本無罪論。

 パルによる「無罪」の第一の論点は、実体法的な根拠がないという議論である。

 これは純粋に法律論としてのみ意味をもつ「無罪」論であり、日本軍の行為に人道に背くものがなかったという事実認定をパルが下したわけではない。

 東京裁判には、訴訟法の手続き規定が不在で、その点ではまったく専制的である。パルの指摘では、伝聞証拠排除の原則を欠く東京裁判では捕虜虐待のような事後法に拠らない「厳密なる意味における戦争犯罪」に関しても、正しい審理が法律論的に不可能である。

 つーわけで、パル判事(「パール」の方が耳馴染みという気がする)は、別に日本のやったことを無罪って言ったんじゃねえよって話。まあ、そんなのは目にしたことのある考え方。盗人が盗人を裁くのを見るようなもんってことだわな、そりゃ。
 では、じっさい、細かく、どのようにってあたりで、どんなんかという話になる。俺、こういう法律の話、司法の話は、なぜか好きだ。
 そんで、とりあえず、普通の(?)戦争犯罪についても、手続き上の欠陥があったんじゃねえのってところがあったと。
 そんじゃあ、よく言われる「事後法」については、どんなんが背景にあったの? っていうと、英米法固有の「罪刑法定主義の限定論」っつーのがあったっちゅう。英の法の権威だったライト卿つう人が、次のように述べておるという。

 ……正義の要求によって、裁判官が法を修正し、変更し、改新することは……は、事実問題の決定とはべつに、イギリスの裁判官の大きなしごとである。

 で、逆に、昔ながら(?)の大陸法では、そうはならん。

 もしも適用不可能な事例が発生するなら、前もって法律を制定した上で、それを適用しなければならない。理屈の上では世界最初の事例は法の処理ができないものとなる。

 と。ほんでもって、この俺、たいして法律にも政治にもくわしくない俺の感覚では、この後者の理屈の方がしっくりくるところがあるわな。wikipedia:罪刑法定主義でやってきた日本人だからかな。でも、世界最初の(ひどい)犯罪(的なこと)が起きたとして、法律がないから無罪っつーのも、まあ納得できんし、そこで弾力性があった方がいいって考え方も、完全に否定できたりしねーしって。あー、ほんで、ともかくパル判事も、この大陸法の考え方、新しいか古いかでいえば、古い考え方に則っていたというわけやね。
 でもって、そういうことで、東京裁判は、あるいはニュルンベルクの戦争裁判は新大陸の法スタイルが適用された、と。でも、そこんところに重大な欠陥があったと。

 しかし、「法を作る」体系が、恣意的になる危険は確かにある。そのための安全装置が、陪審制度と訴訟の手続き法である。ところが、東西二つの戦争裁判はこの安全装置を完全に無視して成立した。陪審員に代わるべき裁判官はすべて戦勝国から選任された。中立国の法律家をまじえるという常識的な配慮すらなされなかった。

 つーわけで、「安全装置を無視した戦争裁判」であった面は否めないと。単に事後法だからいけない、ってんじゃなくて、事後法的考え方でも欠陥があんじゃんって、そういうあたりなんだろうな。しかしまあ、背後に、そもそもその、罪刑法定主義的な考え方と、英米スタイルの違いがあったとか、そのあたりからして、はじめて知ったわ。

とりあえずこのへんで

 ええと、あと、なんかいろいろあったけど、とりあえずこのあたりを書き留めておしまい。あー、やっぱりその、平和とは? 戦争とは? とか、戦争反対とか、あー、そうだ、なんかあと、「非平和」ってのがあって、そのあたりについては、また書くかも。とりあえず、このへんで。