男と女と犬と猫

 私は犬か猫かでいえば、猫が大好きな人間であって、犬というのはどこか好きになれませんでした。これは、かなり幼少のころよりのことですし、実家で猫を飼うようになってからその傾向はいっそう深まりました。
 そして、私は私自身を「猫的な人間」だと思っていたのですね。居眠りと自由、気まぐれと気楽、そんなタイプの人間です。犬のように組織や忠誠、忠心といったものは苦手だと。序列なんかも嫌いだし、もしも集まるならば、猫の集会のようにてんでばらばらに適当に集まるくらいがいいじゃないかと。
 ただ、あるとき、私は私の大好きな年上の女性からこう言われたのです。「キミはときどき犬に見えるよ。本当に耳が生えてて、振ってる尻尾も見えるみたいだよ」と。そこで、ハタと気づいたのですね、ああ、私は私が考えているほど猫のような人間ではなかったのだと。私はたしかに彼女の忠犬です。ときにはバター犬です。私は猫などではなく、犬だったのだ。ときに気まぐれな猫に仕える犬だった。

 そう考えてみると、私は犬だから猫に恋いこがれ、猫の自由さを渇望するのかもしれない。むしろ、私が猫を好むのは、私が猫でないからだ、そう考えた方がしっくりくるような気がします。私はものすごく保守的な人間だからこそ、革命にあこがれるのかもしれない。私はものすごく法と秩序に律される人間だからこそ、アナーキズムにあこがれるのかもしれない。私は私に欠けるものを補完しようとして、私の性質を形づくっているのかもしれない。これを絶対矛盾的自己同一だとか即非だとかいうのかどうかはわかりませんが、どうもそのようなところがあるように思います。
 そんなわけで、私が書く文章を目にしているあなたが、私がどのような人間に見えているかはわかりません。しかしながら、私は私が猫好きの犬であると、そう考えて、こう表明している人間であると、まあとりあえずはそのように規定していると、今はそうだと、ここにこう書き留めておきます。おしまい。

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  • http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20090721/p1……考えてみれば、これの答えは明白なのですね。私はわんこ君だし、ニャーニャー言う真希波に惹かれないわけがないのです。あと、私はエヴァテレビ版最終話付近のシンジ君の独白みたいなことを、泣きながら女性にぶつけたことがあります。今回、再放送を見て、そのシンクロぶりというか、ほとんど同じセリフを、自分が本心から述べたこと気づき、なんとも複雑な心境になりました。それはちょっと説明しがたい。