あえて、小声でカツンと言いたい、ロードの人ってなんで信号守らねえの?

俺の実感と疑問

ロードバイクに乗ってる人が、よく赤信号でも交差点を渡ってますが、
ロードバイクに乗ってる人にとって信号無視は常識的なものなのでしょうか?

ロードバイクの信号無視は常識? - ロードバイクに乗ってる人が、よく赤信号... - Yahoo!知恵袋

 これ、自分で書いたのではないかというくらい、俺の最近の疑問。俺が低価格クロスに乗り始めて半年とちょっと、丁字路を無視するロードの人(ロードマン? ローディ?)が多いのはすぐに気づいたが、だんだんと確信に近づいてきたのが……「ロードって信号無視するのが基本なの?」と。
 つーかね、俺というすごい狭い観測範囲が申すことなのだけれどもね、実感として、「守らない人もいる」どころか、「守る人もいるかもしれない」くらいの、そんな感じじゃねーのって。丁字路はおろか、十字路だろうとなんだろうと、行ける(=車が来ていない)なら行く、そんなんばっかりじゃねえの、どいつもこいつも。でかい交差点で交通量激しめだったら、ぶつかりたくないからしぶしぶ停まりますけれども、それ以外は行きますよって、そんなんじゃねえのって。
 

まあ、大声でガツンとは言えないんだけれども

 でもね、まあ、俺も、大声でガツンと言えない。「おまえ、完全に交通法規守ってんの?」ってナザレのイエスに言われたら、逆ギレして、「うるせーバカ!」って手を嚢にいれてその中より一つの石をとり投て頬を撃ければ石その頬に突きいりて俯伏に地にたふれたり、しかしイエス立ち上がって、おまえもし我の右の頬をうたば、左をもうてよって挑発してくる、そんな感じになると思う。
 いや、どんな感じか俺にはよくわかんないんだけれども、俺だって速度超過とか、走行車線の選択ミスとか、なんかいろいろやっちゃってるかもしれねえよっていうか、たぶん、きっと、してるわな。信号順守は乗り始めたときからの、当たり前の決まりで、また、それこそが自由じゃねえかって気もするんだけれども……。

 縛られているほど自由ってことはあると思う。たとえば、車でもバイクでも自転車でもいいけれども、自由に道路を走りたいとする。自由を求めて、信号機や各種標識なんかをぜんぶ無視するとする。すごい自由だ。だが、それはぜんぜん自由じゃない。赤信号を無視するとき、あっちから、こっちから車が来ないか、いちいち判断せにゃならん(走るのが目的だから、ぶつかって終わりってのはダメ)。すごい頭をつかって、見て、聞いて、注意して、判断して、決断して、いちいちさ。
 そんなのすげえ不自由じゃん。もう、不自由すぎる。それだったら、信号機とか法律とかに従って、ある部分判断を委ねて、それでドライブを楽しむ方が自由だ。もちろん、オート運転のようにはいかんし、臨機応変の対応は必要だけれども、まったく信号を無視したりするより、ずっと楽で自由だ。

この娑婆より外へ - 関内関外日記

 まあ、これは俺の好み。考え方の嗜好。だから、ただ信号守ってるからって、そんなに大声で人様の運転に文句言えるほど完璧超人じゃないっていうか、死ぬくらいなら闇米食うタイプだし。
 あとさー、これってたぶん、「信号守るのが当たり前、正しい」ってのが、なんつーか、当たり前で、正しすぎるんじゃねえかっていうところの、そういう引っかかり。たぶん、こんな風に、とくに言葉だけのネットの世界ではさ、もう信号守るのが正しいに決まってるんだよ。教条主義とか、そんな風には言わないけどさ。
 でもさ、たとえば、自転車じゃなくて自動車の話題として、やっぱり法定速度ってどうなの? ってなったら、少なくとも、自動車免許を持っていて、かつて自動車と原付に乗っていた俺は、「……交通法規が現実の自動車、道路の事情に対応して、改正されてきていないんだよね。みなが平気で法を破ることが常態化しているというのは、モラルの低下につながりかねないんだ。そう、かつての禁酒法のときのように!」とか言って話をごまかすというか、正直、「法定速度完全順守でクルマ運転してらんねーんじゃねえの?」って、それが当たり前というか、路上の常識だろ、くらいの気はしてしまう。ものには度合いってものがあって、サー・ナイジェル・マンセルみてえなスピード違反はアウトだけど、その、日常的なね、って。なんか、ほら、このあたりを語りうる言葉ってのは、すげえ難しいもんだと思う。
 で、「自分は免許証も持っていないし、誰かの運転する自動車に乗ることもない。交通事情なんてものは知らないが、ともかく法律は法律で、スピード違反は全員アウトだろ」とか言われたりすると、なんというのだろうか、「お、仰ることはもっともでございまするが、あー、その……」と、口ごもってしまうような……。
 あー、ともかく、そこんところでさ、もう、ロードバイクってのは、そういうもんだ、そういう乗り物だって、ロードの人の間に空気があったりしたんなら、俺はそれを察せてはいませんよ、と、そういうところはある。そこんところで、ロードの人たちが、口を濁しているとしたら、それはわかんねーよ、と。
 なんつーか、そういう内輪の空気をこちらが過剰に読む必要はねえと思うけど、ただ、声高になんか言うには、そこんところの是非以前に、まあ事情を知るくらいのことはなきゃいけないと思う。ところが、俺はロードに乗ってる知り合いは一人もいない、話をしたこともない、ネットで話を拾うだけ、ただ現実に信号無視するロードを見るだけ。もちろん、オフィシャルな何かを背負っている人や、自転車に乗ることに意識的な人は、きちんと信号無視批判まで踏み込んでるけれども、もちろん、それは俺、非常に尊敬するけれど、ただ、それを笠に着るように俺の声高さにプラスすんのも嫌だし。

そんでも、あえて、カツンと言うよ

 そんでもさ、そんでもね、カツンと言わせてくれ。やっぱり信号くらい守ってもらえませんか? と。なんか下手に出るのは、やっぱり、ロード乗りはすげえなって思うからだ。

ちょっと俺はなんか、ロードの人を神聖視じゃねえけど、上級者として立派にやっててほしいから、こういうのはちょっと残念だわ。

2009.5.2 サイクリングの記録と反省(写真少なめ) - 関内関外日記

 って、こんな感じだ。俺も、いつかはクラウンっていう感じで、「いつかはロード」って夢見る人間だしさ、まあロードを買う金があるってのはともかくとして、やっぱりムキムキ身体にハデハデなサイクルジャージ着てさ、なんかすごく速く、もっと遠くにって実現してる人らじゃん。でもって、世間に向けては「ここに自転車趣味あり」って幟立てて走ってるようなもんじゃん。
 そうしたらさ、自転車趣味入門者にとっても、やっぱり他人事じゃないっつーか、あんたらがしっかりしてくれねーと、俺も不利益受けるじゃんって、そういうところがあるっていうか。じっさい、ここ最近の道路事情の中、俺が車か原付乗ってたら、ロードに頭きてるんじゃねえかって思うわ。
 あとね、なんかね、すげーかっこ悪いわ。ビカビカに着飾ってさ、「自転車も交通社会の一員なり」って感じで、こう車道で存在を主張してるように見えるのがさ、交差点で、赤信号で、「ビンディングはずすのめんどうくせー」ってなんかぬるぬる出てって、ほいほい行っちゃうの。これ、一台より複数台だと、なんか情けなさが際立つわ。それもまたさ、万が一俺が将来そういう格好するときに、そう思われるの嫌だから、勘弁してくれって思うわ。そう、だから、カツンと、ちょっと小声で言うわ。

つーわけで、こんなこと言った以上……

 まあ、なんだ、別にこれを何人の人間、何人の自転車乗り、何人の信号守らない派のロード乗りの人が読むかわかんねーし、読んだ人がどう思うかはもう俺にはわからんが、書いてしまった俺としては、すげえなんつーのか、交通法規に対して意識的じゃないとかっこわるいじゃん。気持ち悪いじゃん。俺の、俺に対する意識としてそうなっちゃう。これはやっかいだ。でも、やっかいだけれども、まあしかし、できるだけ気持ちいい方がいいし、自分が自分に対してもとるようなことがないようにすることは、ある意味の自由なような気もするしさ。
 あー、そういう意味では、なんかなあ、なんか言葉にするのはむつかしいけれども、正論を吐くというか、良いことを言うというか、善を奨励するとか、そういう、はっきり言って余計なお世話だよって話も、その当人の内心に作用する点においては、なんかいいのかな? あー、でもさ、その人の内心、その人の良心に従った結果が、なんか大量虐殺でした、とかになったりすることもあって、なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべしってさ。
 そんでも、やっぱり、なんか言葉にすると、それに対してさ、対自分の責任が生じるわけだし、そこんところで、なんか「言った以上」みてえな、そこんところがあると思う。うーん、なんかさ、ネット上でさ、実名・匿名ってことじゃなくて、やっぱりネット上の人格として一定したものを持っていて、それで、ロードなりなんなり乗っていて、信号無視批判する人は、もちろんその人らなりにいろんな基準やなんかもあるんだろうけれども、それが裏でっていう裏切り、オフラインで無視しまくりって可能性は、あんまりねえんじゃないかと思うんだわ。
 そこんところで、なんか俺は、やっぱり、少なくともネットで意識的な人は、きちんと守る方向で行ってる人だろうって信用するわけなんだ。そういう人はたしかにいる。でもさ、ネットとさ、現実の路上で目にすることとの圧倒的な差っていうのは、なんつーか、いかんともしがたいというか、やっぱりなんかちょっと気になるところなんだ。あまりにも、出会わなすぎる。

でも、死にたいんならなんにも言わん

 けどさ、ひょっとして死にたいのかな。そうだとしたら、俺はますます言うべき言葉はない。俺がこころのどこかで願っているのは、自転車死だからだ。

 俺はヘルメットがほしいと思った。ダンプカーの不可抗力、暴力的コンクリートに叩きつけられる俺の頭部、砕ける頭蓋骨、飛び出す脳味噌。俺は俺の脳を拾い集めなきゃ、と思う。思った刹那すべてが暗くなる。そんなのは嫌だ。死ぬ刹那はもっとまともななにかを考えていたい。俺の最愛の女が寝取られる夢を見ていたい。俺は死ぬのにヘルメットを買うことにする。

2009-01-14

俺はそんなんで、まあ、「予測と調和」言いながら、自転車漕いだりしてます、と。そんで、もしもダンプカーにぶつかって死ぬにしても、その直前の何秒かに、できるかぎりの回避とかを試みて、やるだけやった上で、「ああ、こりゃどうにもならんわ。今朝、五分早く起きればよかったんだな、しゃあねえや」とか思いながら死ねば、それなりに幸せじゃねえかと思うのでした、おしまい。

運転の秘訣は「予測と調和」 - 関内関外日記

 ……不可抗力の死。自殺的暴走はしない。運転の基本は「予測と調和」だ。でも、その上で死ぬ。ジャイアント・エスケープ、生からの逃走。そこんところがどこかにある。圧倒的に迷惑をかけられる(飲酒運転のヒドラジン満載のタンクローリーが280km/hで死角から突っ込んでくる、など)んならしゃあないが、あんまり迷惑はかけたくない。行方不明、くらいでもいい。輪行袋は死体袋だ。そんなところがある。
 なので、もしも信号無視者たちが、速さの果ての死を願っているのならば、なんというか、もうそこまでは立ち入らんとしかいえない。彼らの方が、逃走においてより積極的であるというだけだ。なので、もしも俺が信号待ちをしてるとき、右をすり抜けていったロードの人が、なんかダンプカーとおもしろいことになって、なんか愉快な光景をかもしだしたりしたら、俺は遠慮なく季節の風物詩を写メにおさめてアップするだけのことだと思った。おしまい。