大通り公園でビールを飲みつつ、タッチパネル注文の操作ミスで油そば二杯きたときのことを考えた

 関内大通り公園で行われているビアガーデン。連れられて行ってみたら六時半では後手後手もいいところ。自分だけ席がなく、ひとりハンバーガーとビール。つらつらと油そばのことを考えた。考えたのは昨日の話、おおよそ書いたのも昨日の話、油そばは今年の7月18日21時30分ころの話だ。話は後半、よくわからないところに飛んでいく。頭がおかしい。アルコールのせいもある。ウォーニング&イクスキューズ。 

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タッチパネル注文の操作ミスで油そば二杯きました。

タッチパネル注文の操作ミスで油そば二杯きました。 ... - いただきます - 黄金頭 - はてなハイク

 チェーンの居酒屋。個室、俺と連れの人。注文はタッチパネル。運んでくるだけの店員。落ち着ける空間。俺はこの日、それほど体調がよくなかった。〆に、彼女はお茶漬けを食べたいという。つきあって、俺は油そばにした。よくわからないチョイス。
 そして、運ばれてくる油そば、二杯。びっくり。「え、一杯では?」と俺。バイトの女子店員、少し困った顔で端末を見ながら、「いや、確かに二点ご注文を……」。「じゃあ、いいです、どうも」と俺。
 その時の、俺の心境はどうだったか。まずなによりも、すがすがしかった。妙な気分だったが、すがすがしい。タッチパネルを誤操作したのはわれわれだし、その証拠はログに残っている。機械、端末、情報伝達。油そば二杯。二杯、いけるか? いけるだろう、いってみせるさ。愉快なほど早く、俺は油そばを二杯食いきった。俺はいつか、ラーメン二郎に行きたいと思う。ただ、ラーメン二郎は端末ではない。呪文を唱える。それが気がかりだ。
 俺はファーストフードを愛する、牛丼屋を愛する、コンビニを愛する、それより少し敷居は高いが、ファミレスも愛する。あるいは、この個室は愛する。ほとんど無人でサービスを提供してくれる、ラブホを愛する。
 俺は、二杯の油そばに、その愛を感じたのだ。ラブ、そしてピース。デッカードですら「2つで充分ですよ!」とおっさんに言われたのに、こっちは油そば二杯だ。ブレードランナーよりSFだぜ。SFは全部肯定されるんだ、俺の中では。
 そして、よくわからないが、「間違えることができた自分」が妙にすがすがしい。ある意味、俺のなしたようになした。俺が俺の意図しないことまで、俺のなしたようになったのだ。

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 関内関外日記などと名乗りながら、今後この日記で「地元でいきつけの飲み屋の話」だとか、「街の顔なじみとのエピソード」などというものは絶対に出てこないだろう。俺のいきつけはマクドナルドでありすき家でありなか卯であり数軒のコンビニエンス・ストアであって、いっさいの人的交流が入り込む余地はない。それは俺が対人関係において心理的に不自由な人間であるということと、金銭的にあらゆる余裕のない人間であるということによって確定的だ。そして、俺のようなやつが増えるに従い、人の顔のある街は死んでいくのだろうと思う。

http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20080303/p2

 人の顔のある街は死んでいく? これは嘘の感傷、脚色だ。ちょっと、格好付けただけだ。俺の本心。オートマチックはすばらしい、システマチックはすばらしい。システムはすばらしい。その分、俺に余裕ができるからだ。俺は、何を食えるかに興味があって、べつに店員に会いたいわけではない。俺が他人に気を使わなくていいぶん、俺はより自由になれる。タッチパネルでいい、自動券売機でいい。吉野家の食券機に関する方針は、俺を吉野家から少しだけ遠ざけている。それでも、俺にとってチェーンの飯屋はとてもおもしろい。すごくおもしろい。いつだって冒険だ。俺の中の冒険だ。システムは、俺にその自由を与えてくれる。信号機の規制が、俺にサイクリングの自由を与えてくれるように。

 たとえば、車でもバイクでも自転車でもいいけれども、自由に道路を走りたいとする。自由を求めて、信号機や各種標識なんかをぜんぶ無視するとする。すごい自由だ。だが、それはぜんぜん自由じゃない。赤信号を無視するとき、あっちから、こっちから車が来ないか、いちいち判断せにゃならん(走るのが目的だから、ぶつかって終わりってのはダメ)。すごい頭をつかって、見て、聞いて、注意して、判断して、決断して、いちいちさ。
 そんなのすげえ不自由じゃん。もう、不自由すぎる。それだったら、信号機とか法律とかに従って、ある部分判断を委ねて、それでドライブを楽しむ方が自由だ。

この娑婆より外へ - 関内関外日記(跡地)

 本当は、信号機なんてない方がいい。みなが思い思いに、本当に自由にすべての車を走らせ、バイク、自転車、走るやつ、歩くやつ、匍匐前進するやつ、寝っ転がるやつ、踊るやつ、犬や猫や馬や鹿やその他の生き物もいて、それでいて衝突事故なんておこらなければいいんだ。

 僕らは今の音頭取りだけが嫌いなのじゃない。今のその犬だけがいやなのじゃない。音頭取りそのもの、犬そのものがいやなんだ。そして、一切そんなものはなしに、みんなが勝手に躍って行きたいんだ。そしてみんなのその勝手が、ひとりでに、うまく調和するようになりたいんだ。

僕らは今の音頭取りだけが嫌いなのじゃない。今のその犬だけがいやなのじゃない。音頭取りそのもの、犬そのものがいやなんだ。 - 関内関外日記(跡地)

 クロポトキンはこう述べた。

 われわれは、いかなる種類の強制をも有しない、平等人の社会を承認する。しかも、こうしたいっさいの強制の欠如にもかかわらず、平等人の社会において、成員の反社会的行為が社会に重大な脅威になろうとは思わない。自由人たちからなる社会は、現代のわれわれの社会よりも、よりよくこれらの反社会的行為から身を守ることができるであろう。今日の社会は、社会道徳の擁護を警察、スパイ、監獄―つまり、それは、犯罪の大学なのだ―看守、死刑執行人、および裁判官たちにゆだねているのだ。他方、自由人の社会は、なかんずく、反社会的行為を予防することができるであろう。
 『近代科学とアナーキズムクロポトキン

 ……で、どうやって調和するの? 予防するの? そのためには、まず信号機をぶっこわすことからはじめなきゃいけないのか、マニュアル人間の居酒屋店長をディスることからはじめなきゃいけないのか。信号機に頼ることは、不自由の内面化なのだろうか? マニュアルに身をゆだねるをよしとすることは、規則を内面化した、抑圧なのだろうか? 警察、スパイ、監獄、看守、死刑執行人、裁判官、信号機……。
  

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 人間は、機械によって非人間的になったのではない、非人間的だったからこそ機械を生みだしたのだ。
『身体の零度』三浦雅士

 養老盂司氏は、現代文明の「脳化」ということを言われるが(『唯脳論青土社、一九八九年)、私はむしろ脳という特殊な臓器を超えて、人間の心の「身体化」ということがまぎれもなく起こっていると思うのである。
 『生命の意味論』多田富雄

 でも、むしろ、信号機を、マニュアルをも、自分自身そのもの、人間そのものであると、つきつめてはどうか。
 そもそも「人間」というものは、機械=システム=身体的なものではないのか、みてーな。この社会も文化も文明も、それの反映。人間そのものが壁だ。心はシステムで、壁だ。そもそも壁と卵なんて切り分けられない。せいぜ黄身と白身、かき混ぜられた卵、溶き卵。このいっさいのシステムは、構造は、みんな人間そのものの反映。それは、人体に比例した美しい都市、美しい宇宙とは違ったものかもしれない。混沌としていて、複雑で、冗長なものかもしれない。しかし、われわれから生まれたものだ。われわれに似たもの、われわれと同じものだ。

都市は最終的に「自己」というものを持つようになると思う。
『生命の意味論』多田富雄

企業は、超システムとしてそれ自身が自己目的化している構造体なのである。
『生命の意味論』多田富雄

  

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人間生活の終末は、すべての人工組織から開放せられて、自らの組織の中に起居する時節でなくてはならぬ。つまりは、客観的制約からぬけ出て、主観的自然法爾の世界に入るときが、人間存在の終末である。それはいつ来るかわからぬ。来ても来なくてもよい。ひたすらその方面へ進むだけでたくさんだ。
「現代世界と禅の精神」鈴木大拙

 でも、俺が望んでいるのは自由だ。統制でも組織化でもない。俺は大拙の、「その方面」を志向してやまない。でも、一方で俺は、人工組織化を大いに肯定したい。機械化を肯定したい。いや、それそのものを肯定するのではなくとも、それが自由からの逃走とは感じられないのだ。むしろ、まったく別のことがらに見えて、実はひとつではないのか、そんな風に思う。自己目的化した自由。なんだそれ。
 

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 機械を使うということと、これに使われるということと、二つの見方がある。あるいは感じ方というほうがよいかもしれん。自分は使っておると思っていても、その実、使われているのかもしれない。あらわに見るとか感じるとかいう意識にまで発展しなくても、事実上、ハンドルをまわし、ボタンを押しながら、かえって、それに使われているのが普通である。「使われている」という意識の出るときには、すでにいくらか、その事実を超克しているといってよい。しかし、まだまだ目的論的なものが残っていて、無功用の境地には、程遠い。物を物として、物とせられぬこと、人言に惑わされぬこと、「独坐大雄峯」的になること……。『荘子』のいわゆる渾沌氏の術においては、未到底といわなければなるまい。
 「創造の自由―『荘子』の一節」鈴木大拙

 法則・機械・必至・圧迫などという一連の思想、そうして、これと正反対の思想……人間、創造、自由、遊戯自在、これらがどういうふうに協調していけるか、あるいは、また、どうしても協調していけぬか。自殺か、自活か。これがいろいろの形で、歴史の上に現れ出てくる。近代は、これが、ことに著しい厳しさをもって、われらに臨んできている。
 「創造の自由―『荘子』の一節」鈴木大拙

 よくわかんないが、「機械に使われているのでは」というの、いかにも当たり前に抱く感情。では、その先とは? 自分/機械の不二のところにあるじゃないのか。使う自分、使われる機械の主客未分。また、機械としてのわれわれの身体、臓器、脳、われわれ、われわれの社会、世界、宇宙。ホロン、ウィトルウィウス的人体、アントロポモルフィズム、宇宙のアナロジー、一即多、多即一。


蔵頭は白く、海頭は黒し、
明眼の衲僧会不得。
馬駒踏殺す天下の人、
臨済未だ是れ白拈賊にあらず。
四句を離れ百非を絶す、
天上人間、唯我知る。

 明眼の坊さんでもわからない。天上天下知っているものは、「唯自分だけだ」というところに、東洋的「認識論」ともいうべきものがある。それは一種のsolipsism[唯我論]だと非難せらるもしれぬ。一般的思索法からは、そのようにいわれるだろう。「天上天下唯我独尊」にしても、「独坐大雄峯」、「我は考える故に我在り」にしても、「他の人々は察したが、自分だけは昏昏だ」という老子にしても、いずれも一種のソリプシズムに他ならぬ。人間は我も人も、朕兆未分前の自覚、ローゴス発生以前の惺惺たるものがあるので、それさえ一たび喚びさまされると、「天上人間唯我知る」と同時に、一斬一切斬である。一処透れば千処万処一時に透るのである。「弥陀の本願はまことに、親鸞、自分ひとりのためであった」との信念が決定するとき、それと同時に、弥陀の本願は弘誓の本願であり、「奇なるかな、一切衆生本来成仏」の体得となるのである。それゆえ、この種のソリプシストは直ちに万徳円満あらゆる可能性を不増不減的に具足する絶対他力であり、「無限」そのものであるのだ。
 「東洋思想の不二性」鈴木大拙

 人間の本質とでもいうべきものは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち、薄っぺらだということになる。これに反して情意的なものは未分的すなわち全一的であって、人間をその根本のところから動かす本能を持っている。人間は行為を最先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質から離れて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。アダム、イブの世界には「行」のみがあって「知」がなかった。それでエデンの楽園が成立した。一旦、知が出ると、失楽園となったのである。入不二法門の世界では、その知をそのままにして、もとの行の世界、意の世界を、新たな面から再現させている。この点で入不二法門はエデンと相異するのである。一段の進出といってよいのである。二度目の林檎を食べぬといけない。
 「東洋思想の不二性」鈴木大拙

 そうだ、二度目の林檎を食わねばならぬ。生命の樹に実った生命の林檎を食う。人類は補完されるのだ。ピンク色の光! 神は不在であった。いつわりの神、聖なる侵入。わかるか? 自分を構成する一番小さな単位から、自分をとりまく一番大きな単位への飛躍、否、ゼロから無限に、無限からゼロへ。その先にはあらゆる不幸な衝突は予防され、めいめいに踊り狂っても調和しているのだ。一斬一切斬、自分のまわりのあらゆる人々が自由であるだけ、自分もまた自由であるとバクーニンは言った。衝突しないのだ。不幸な衝突はない。自らの組織の中に起居する終末、五十六億七千万年後、自らのアパートで起居する週末、あと十時間。

 「サタンの力でも」とトラウトはいった。「神がすでにやったことはもとにもどせない。しかし、神の小さなおもちゃたちの生活を、すこしでも苦痛のすくないものにしようと試みることはできた。神が気づかないことに、彼女(サタン)は気づいていた。―生きるということは、退屈するか、怖気づくかのふたつにひとつだということに。そこで彼女は、リンゴのなかに、少なくとも退屈をやわらげてくれるさまざまのアイデアを詰め込んだ。たとえばカードやサイコロを使うゲームのルールとか、ファックのやりかただとか、ビールやワインやウイスキーのレシピとか、タバコの原料になるいろいろな植物の絵などを。また、音楽の作り方とか、作った音楽をとても熱狂的に、とてもセクシーに歌ったり踊ったりするやりかたを。また、足の爪先をどこかにぶつけたとき、どのように瀆神の言葉をさけべばいいかを。
 サタンは蛇に命じて、イブにそのリンゴを与えさせた。イブはひと口かじって、アダムにさしだした。アダムもひと口かじり、それからふたりはファックしたのです。
カート・ヴォネガット『タイムクエイク』

書き忘れていたこと

 コミュニケーションのこと。たとえば、サービスのいい宿屋とか、顔なじみのマスターとか、なんでもいいけれども、まあ、よしもとばななが「よかった」と思えるようななにかがあるじゃん。でも、それって、なんというのか、結局のところ、お客と物売りであって、金を媒介としたつきあいであって、なんというか、貨幣制度とか、資本主義とか、ま、そういう制度の中で生じる、たまたまの関係であって、それはたまたまいまそういう社会であるだけのことであって、そこの中での差異なんて、コミュニケーションのいろいろのあり方を考えたら、やっぱりそれほど違いなんかないんじゃないか、みたいな。
 じゃあ、なんかもう、人間がみんな悟って、自由人になって、草木国土悉皆成仏ってなったとき、餓えや貧困とかの不自由から自由になったとき、労働から自由になったとき、人間のコミュニケーションってどうなるんだろうね? なにかその、そういうところまできて、はじめて「働く意味」のようなものが問われるようにも思うし、そこんところで、利害や立場とかから自由になって語られる言葉ってなんだろうね? よくわからない。ただ、ひょっとして、言葉だけ浮遊するような、匿名性の高い部分においてのインターネットのやりとりは、まあ、言うまでもなく、俺にしたって不自由な存在が行っているものとはいえ、そのあり方として、ちょっとだけそのあたりを先取りしてるんじゃねえかって、そんな風に思う。で、しかし、そのあたりで、「ネットが人間の精神を進化させる」みてえなことはないって、たぶんそれは吉本隆明が言ってたとおりだろう。となると、やっぱり血肉からの自由なんてのは自由じゃなくて、なに、内臓語っていうのかわからんけど、そのあたりは、この糞袋そのままの飛躍、横っ飛び、なんていったっけ、そんなんじゃなきゃだめかもしらん。色即是空は空即是色で帰ってきて、さあさっぱりわからん。