『実録・連合赤軍』をようやく観るのこと


 
◆ようやく観た。
映画『光の雨』が頭をよぎる。当たり前だ、同じ題材だ。同じエピソードだ。

◆時代劇でいろいろの信長がいろいろの本能寺の変に遭ったように、またこの中の人たちも、これから何度も何度も繰り返されるのだろう、そのような気がした。彼らの革命は永遠に失敗しつづける。革命左派はうっかり水筒を忘れつづけるし、坂口弘森恒夫永田洋子を寝取られつづける。エンドレスエイト

◇今回の永田洋子は怖かったね。怖かった。超怖い。『光の雨』での裕木奈江もすごかったが、こちらの並木愛枝版は怖さ増し。ぞくりとくる。一方で、革命的狂気は裕木奈江だ。あの早口でのまくし立てはよい。

◆あちらにあって、こちらにあるもの。前史とその後。重信房子と遠山美枝子。百合……とか思った。重信さんは、なんか印象違うな。でも、『赤P』の本人とか、そうかな、なんかそういうお嬢さんというようなとこもあるような。でも、荻野目慶子かな。で、坂井真紀は、失礼ながら、年齢を感じさせない良さがあった。すげ。

◇遠藤さんと、加藤さん兄弟の末っ子、これが一種の、外からの目というか、あの内にあって外というか、そういう役目のようだった。そう感じた。インタビュー記事を読んだら、末っ子視線という構想すらあったみたい。

連合赤軍』も最初は元久の話だけで撮ろうと思ったんだよ。だから、最後の方は元久の視線でずっといってるでしょう。

http://eigageijutsu.com/article/103758801.html

◆その元久が、ラストで印象的な台詞を言う。下手をすると、なにかとってつけたような、浮いているようにすら思える台詞。俺は、これが創作部分なのかどうか、そのあたりが気になった。

――彼の「勇気がなかっただけ」という印象的なセリフがありますが、あれは途中から付け足したものなんですか。

最初はなかったセリフなんだけど、元久が「みんなが勇気を持って森さんと永田さんにもうやめようって言ってくれたら、お兄ちゃんも死ななくてすんだのに」って坂東君にぽつりと言ったらしいんですよ。その時に坂東君はものすごくへこんで、こんなに辛いことはなかったって話してくれてね。それをフッと思い出してあのセリフを付け足しました。やっぱり元久にとっては、あの時みんなに勇気があれば、お兄ちゃんも生きてたんじゃないかという気持ちがあったんだね。

 「ぽつり」と言ったらしいところ、ガツンと言わせる。そのメッセージ性、監督の言いたいこと、なのかな。俺はこの台詞を聞いて、こないだのNHKスペシャルの、海軍軍令部の反省会特集を思い出した。「やましき沈黙」だったかな。みんなこんなんじゃ戦争に負けるってのがわかってたり、無茶な作戦だってわかってても、沈黙してしまう。山本五十六の、黒島亀人の威光の前に黙ってしまったというんだな。
 もちろん、連合赤軍と、旧海軍軍令部じゃ、まあいろいろと違うだろう。でも、なんかわからんが、俺は、このあたりが、ひょっとすれば「日本的なもの」だったりするんじゃないかと思う。それとも、なにか、人間が集団になると生じてしまものかもしれない。そのあたりは知識が足りないのでわからない。

◇また、連合赤軍と似たところがあるのではないか? と思うのが新選組だ。これも、なんというか、立ち位置やいろいろのものが違うが、似たところがある。どちらも正規軍ではない(新選組はのちに取り立てられるが)とか、年輩の指導者を仰がず、若い人間が上に立った組織だったとか、そんで、なにより内ゲバというか、粛清というか、そのあたり。このあたりについては、なにか書かれたものがあれば読みたいと思うが、今のところ自分の思いつき。

◆思いつきついでに、はてなハイクに垂れ流したものを載せておこう。これはもう、思いつきすぎてしかたないレベルのもので、たとえば「暴力」という言葉ひとつとっても、「それはなんだ、説明しろ」と言われても答えられない。だから、自分なりに誠実に書こうとすれば、「暴力と呼ばれるらしいと俺が思っているもの」とか、そういうことになる。全編にその但し書きが入っていると思ってほしい。あるいは、おおよそこの日記全部にも。

連合赤軍で起きたことは、国家権力による法や暴力の要素が凝縮されたことによるものなのか、ムラの空気、人間社会人間関係が凝縮されたことによるものなのか。そのどちらともか、どちらでもないか。
by goldhead 2009-08-23 10:18:03 from mobile Delete Reply

新選組の御法度は明文化されたものではなかった。士道不覚悟、明文化されたところでそれがなにかわからない。理念、空気、神、誰かの恣意。
by goldhead 2009-08-23 10:20:23 from mobile Delete Reply

総括をめぐる物言いは、禅における悟りのそれに似ている。人に聞いてはだめ、自分自身できづかなければ意味がない。お前はわかっていない。それがわかっていないと自覚するものは、それがわかっていると言われているもの、自ら言うものに、物が言えぬ。
by goldhead 2009-08-23 10:24:52 from mobile Delete Reply

軍隊にもいじめや私刑はあるだろう。私刑死刑もあるだろう。が、基本的には、それが永続するように行われるのではないか。生かさず殺さず、下を殺せば、自分が一番下になる。一方で、赤軍は殺すし、新選組も腹を切らせる。
by goldhead 2009-08-23 10:28:47 from mobile Delete Reply

ロシアの共産主義のやった粛清はどの暴力か。ナチのレーム粛清は、芹沢鴨は。それらは、権力闘争、敵を討ったのか? 士道不覚悟、総括で殺すのと違うのか。段階があってそれが違うのか、区別のつけようなどないのか。
by goldhead 2009-08-23 10:34:07 from mobile Delete Reply

◇「壁と卵」だとすれば、壁の暴力というものがある一方で、なんというか、卵の中の暴力みたいなものもあるはずだ。卵パックの中での、卵同士の衝突。バクーニンが憂慮していたもの、アナーキストも答えが出せないもの。

 国家権力の、いわば可視的な暴政とは異なる意味での、社会の不可視的な暴政の可能性について透徹した洞察力を示したのは、バクーニンであった。彼は人間に対する国家の「公式の、したがって暴力的な権威」と、「非公式な、そして自然な社会的影響」とを区別した。

 その後者がさ、国家権力に比べて「いっそう柔らかであり、より婉曲であり、また目立たないものではあるが、それだけにいっそう強力なのだ」って言っててさ、

 社会的抑圧に対する人間の反逆が、国家に対する反逆よりもはるかに困難であり、ほとんど不可能に近い、ということであった。

 なわけで、白旗なわけじゃん。あー、つまりは、もう、法も何にもねえとなると、そこに生まれる社会的統制というか、同調圧力っつーか、そういうものは、もう、不確定で曖昧なものになっちまう、これ、どうすんだよ、って。

 この疑問は、アナーキストの社会哲学においても解きえない謎のまま残ってる。

http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20090617/p3

 ……俺にはよくわからんのだけど、連合赤軍は、小さな小さな国家、圧政国家、悪い共産主義体制か、森/永田帝国かわからんが、そうなったものだったの? それとも、なにかもっと、小さな小さな社会の中での、なんというのだろう、もっと原始的な、村のおさとか、呪術的、宗教的な、そういうものだったの? あるいは、この分類がそもそも間違ってるの? たとえば、集団的な精神病理とか、そういうもので説明がつくの? とか、そんなん。
 これはあるいは、ひとつの日本的ななにか、空気とか、そういったものとかに関係するかもしれないし、一方では、人類全体とか、あるいは、なんかその、近代思想? 集団? の持つ欠陥? 陥穽? みたいな?
 ……と、「?」マーク打ってるときりがない(はてなダイアリーらしいけどな!)んだけれども、なんか、そんなことをぐるぐる考えてる。

◆映画の話に戻ると、重要な役どころの役者を、見たことがあったのに気づいていなかったことを知った。

――でも、坂東役の大西(信満)さんはかなり怒られてましたね。
役者にも助監督にも怒られ役というのを1人作るんだよ。だから大西のことは不条理に怒ったけど、あいつ、なんか怒られやすい顔してんだよな(笑)。

http://eigageijutsu.com/article/103758801.html

 どんな顔が怒られやすい顔だ? って検索してみたら、http://www.stardust.co.jp/section3/profile/ohnishishima.html#profileBoxってのが出てきた。それで、"「赤目四十八瀧心中未遂」 (主演)"って書いてあって、まあ実はインタビュー記事をちょっと読み進めれば赤目四十八瀧心中未遂って言葉が出てきたんだけれども、それで、自分の日記検索したらひっかからなくて、あれ? って思ったら、なんか改名していたのだった大西滝次郎大西信満に。

その主人公を演じたのは大西滝次郎。えらくかっこいい人なので、名前を見れば誰だか名前くらい知ってる名のある俳優かと思ったら、まったく知らない人だった。これがデビュー作という。そのあたり、『陽炎座』に迷い込んだ松田優作じゃあないけれど、彫り師の内田裕也(すごい怪しい!)だとかヤクザの麿赤児(親子で一緒に映るシーンはなかった)に囲まれ、うろたえる雰囲気や良し。世捨て人のインテリという気取りや余裕いっさいなく、生きるのに精一杯、対応するのに精一杯なところが出ていた。何か言われて「ええっ!?」って驚く台詞が何度かあって、それがやけに生々しかった。「生島さん、頼みがあるんやけど」から始まる、巻き込まれ型コメディみたいなところもあったりして。

http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20070907/p2

 ……なるほど、怒られやすそうな顔、か。関係ないけど、なんかちょっと、今のプロフィール写真の顔、阿部サダヲに似てるよね。

◇この映画の前半は、なんというか、当時のニュースフィルム映像なんかがつなぎ合わされてて、まあある意味、説明タイムなんだけれども、これもよかったな。たとえば、逮捕者の数の増減っつーか、「ええ、そんなにたくさん逮捕者いたのか!」みてえな。なんというのか、でかいな、と。
 そんで、そのバックの音楽がいい。たぶんそうじゃないかと思ったら、やっぱり『幽閉者』と同じくジム・オルークという人だった。すげえいい。Wikipedia:ジム・オルークによると、くるりの『図鑑』のプロデュースとか書いてあって、「そうだったの!?」という感じ。ラストの方の曲もいい。サントラ欲しいというくらい。

◆手短に、なんか箇条書きにしようとしたら、なんかやっぱり過剰になった。総括したい。総括ってなにかね? 明文化された、ガチガチの法も怖いけど、「なんだかよくわからん法」も怖いよな。つーか、総括なんて、法でもない。それで、上にも書いたけど、禅の「悟り」をめぐる物言いに似てるなって。

 今日、共産主義戦士にならんと鍛錬するものは、何よりもまず真正の共産主義化を求めることが肝要である。もし真正の見解が手に入れば、もはや思想に迷うこともなく、死ぬも生きるも自由である。人民と一体化する気などがなくとも、自然にすべてが人民とともにある。
 同志たちよ、古からの指導者たちには、それぞれ学徒を共産主義の境地に総括援助する実力があった。私が同志たちに心得てもらいたいところも、ただ他人の言葉や外境に惑わされないようにということだ。平常のそのままでよいのだ。自己の思うようにせよ。決してためらうな。このごろの共産主義者たちが自らを総括できない病因がどこにあるかといえば、信じ切れないところにある。
 同志諸君は信じ切れないから、あたふたとうろたえいろいろな分派についてまわり、世界情勢のために自己を見失って自由になれない。諸君がもし外に向かって求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま共産主義者である。お前たち、マルクスエンゲルスを知りたいと思うか。同志が、そこでこの演説を聞いているそいつがそうだ。
 ただ、諸君はこれを信じ切れないために外に向かって求める。たとえそんなことをして総括を求め得たとしても、それは文字言句の概念で、活きた共産主義化ではない。取り違えてはいけない。同志よ、今ここで総括できないなら、永遠に日和見主義の地獄をさまよい、安定にひかれてブルジョワ資本主義社会に落ちつき、反動的プチブルの腹に宿ることになるだろう。
 同志よ、私の見解からすれば、この自己と真の革命戦士は別ではない。現在、日常の運動に何が欠けているか。山岳ベース訓練を通じての共産主義化は、今までに一秒たりとも止まったことはないではないか。もし、このように徹底することができれば、これこそ不退転の決意で革命を貫徹する真の革命戦士である。

 ……って、『臨済録』を赤化パロディにして、いったい誰得? プリントアウト? あー、いちおう断っておくけれども、「共産主義なんて所詮宗教で、カルトなんだよ」とか、そういう揶揄の意図はないから。単に俺がおもしろいからやってみただけだから。でもなんだ、ひょっとすると、なにかその、方向性とか、思想っつーんじゃなくて、理念? イデア? 理想? なにか、そういったものへのアプローチとして、あの禍々しい「総括」には、なにか、科学的なものよりは、宗教的なものを感じてしまうというのはある。で、それを単純に「カルト」と済ませられるのか、いや、済まないならなんなのか、それとも、そういう話ではないのか……? またはてなが増える。まあいいや、それじゃあ、とりあえずおしまい、っと。

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