実在する地震/世界の破壊

今後30年間に70%の確率で起こり、最悪1万人以上が死亡すると国が想定する首都直下地震

NHKスペシャル

 防災の日らしい番組見てて思ったんだけれども、「今後30年間に70%の確率」で起こるって、まあ過激な地震予知、予言の類とはべつに、なんとなくたしからしく想定される大地震っつーんだけれども、なんかその、総選挙で政権交代したりした直後になんなんだけれども、こんなものが向こう30年で想定されているっていうのって、なんかもう、その、出生率だとか、経済成長率だとか、年金だとか、そんなもんどうでもいいじゃんっていうか、そんなんで数パーセントどうこうなったところで、これで、なんだっけ、100兆円以上吹っ飛んじゃうなら、なんかもうしょうがねえっていうか、お手上げっていうか、無駄っていうか、どっちにしろ、こんなんでご破算じゃねえかって思ってしまうのである。
 ……というのはちょっと違うのかもしらん。もっと俺の根っこのところを直視すれば、それはもう願望に近いというか、願望そのものというか、『終わりなき日常を生きろ』って言われて早何年、やっぱり俺は、あのでかいなにかが全部ぶっこわれるのが見たいというか、まあ前提として自分は死なないつもりというような気楽なところにいるのは確かとしても、なんというのか、非日常願望に、ねたみとかそねみとか、そんなんが綯い交ぜになって、俺は地震を、大地震を願ってすらいる、この薄ら寒い脳味噌なんだけれども。
 でもね、たぶんだけれども、さすがに日本沈没となれば話は別だろうが、想定されている中で最大の地震がきて、首都圏が焦土になっても、そこにたまたま生きていても、なんというか、一時的に、いや、しばらく、あるいはちょっとは長く、今から比べたら非日常というか、今の構造というか、システムがぶっこわれた期間ってのはあるかもしれないけれども、しかし、たぶん、その中ですぐに日常は日常として姿をあらわし、この社会の、政治の、大きなしくみというか、そういうものはほとんど変わらないのではないかなどと想像する。
 いずれにせよ、自分が被災者にならない、なるつもりはない、という、いかにも傍観者風、他人事風のところから物を言っているし、じっさいに大きな災害に遭った人からすれば噴飯ものだろうが、ただ、俺は俺のBCPを整備しようにも、整備すべきなにかも見あたらず、まったくもう、どうにでもなれというような、そんなところにいるのであって、まあこんなやつが大災害に遭って、いきなり死ぬのか、苦しんで死ぬのか、悪運を発揮するのか、そのあたりは向こう30年のうちに70%の確率で明らかになるのだろう。

■いや、他人事でない部分もある。この揺れやすい国土、大震災が襲うのは一秒後かもしれないし、二秒後かもしれない。ひょっとしたら三秒後という可能性だってあるのだ。

■その点で、俺はティム・オブライエンの『ニュークリア・エイジ (文春文庫)』の親父と似た強迫観念を持っている。地震は実在する。お前ら、よく正気でいられるな。俺、正気でいられるか怪しいぞ! ……という、その正気でない思いはどっかしら常に、膜のようにまとわりついていて、ときおり出ては止まらない。これは実感だ。災害への恐怖、終末願望、終わりなき何とかからの逃走、その他いろいろ。でも、ほら、この一秒、次の一秒、また一秒……。

四川大地震 - 関内関外日記(跡地)


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