酸っぱい絶景、白い粉の毎日

 しょうもないくらい、なげうって、どっかに行ってしまいたいとか、そのための自転車だ、などと意気込んだところで、なんというか全部めんどうくさいというところもあって、俺の腰の重さというか、そういうところはどうもならん。アウトかインかといえば、イン、イン、ひたすらインにもぐり込む性格。たとえば、どこか絶景を見に行こうとか、すごい光景を見ようとかいう、そういう欲がわかない。なんというか、そんな光景見たところで、何が変わるものかというようなところがある。なんというのだろう、もう、すごい絶景ですよって写真を見ても、自分が直接見るにあたって、このように見えやしないんじゃないか、というところが先立つ。曇っているんじゃないか、とか、そのとき自分は、なんか腹の調子が悪くて、肛門を締めるのに精一杯なんじゃないか、とか。でも、クソ垂らしながら見れば、それも人生経験、なのかもしれないが、しかし、絶景を前にクソを漏らすくらいなら、五歩くらい歩いてトイレに入れるところで、ラブプラスしてた方がいいじゃん、とか思うし。青い鳥じゃないけれども、幸せは自分の身近にあるとか、外に向かって探すな、自分探しするな、自分はそこにいるだろうとか、禅みたいなところに逃げ込みたいのは、なんというのか、酸っぱいぶどうなんだろうというか、「面倒なので」この身このまま仏になりたいというか、窓を開けたら最高の光景、三歩歩いて未知の風景、みたいな、そんなの、なんかシャブいことしなきゃならんだろう、みたいなところを、なんかある朝目覚めて体得してたら最高、みたいな、まあ、省エネというか。けど、なんかわかんないけど、自分探しとかいう陳腐な言葉に落とし込めないような、やっぱり、外に向かってこぎ出せる人間というのは凄いし、それはもう圧倒的で、俺の出る幕はないというか、かなわんというか、ステージが違うとしかいいようがない。血肉というのが俺には欠けていて、疲れとか痛みとか、心身ともに、なにも欠けていて、その薄さというのを恥ずかしく思うこともさすがにあるが、しかし、俺だってそれなりにがんばって逃げてきたんだ、というところもあるんだけれども、いや、やっぱり足りていないし、なんというか、今さら足したところで、そうプラスにならねえだろうというか。でも、今さらさ、本とかたくさん読んだところで、これまた、もう、もっと若いころから、がんがん読んで、脳味噌を鍛えてきた人間にはかなわんのだし。
 あれ、かなうとかかなわないとか、誰が言いはじめたのかしら。もう、そういうのから降りてきたのに、降りたところで、またなにか比べることがはじまってるのか。冗談じゃないな。俺はもっと降りて、降りて、べた降りで、退行、退歩、攻撃を受けたエビかなにかのように、ケツの方に向かってすごい素早さで、穴に隠れていく、そういうのがいいようにも思う。シロッコメッサーラとか、すぐに変形して逃げるじゃん。あのイメージ。いいなあ、木星。まあ、木星に行ったところで、まあそんなもんなんだ。なんというか、絶景というのは、しかし、夢の中にしかない、幻想の中にしかないと、どうも肉体の方がついていけない俺は、そう考えて、しかしまあ、適当にやっていこうと思う。今までだって、そうしてきたのだから、ね。