性別と身体、レギュレーション、人間について

セメンヤ選手問題

ジャマイカウサイン・ボルト選手が100メートル、200メートルで世界記録を樹立した今夏の陸上世界選手権ベルリン大会。その大会中、彗星の如く現れた女子アスリートがレースに圧勝したことで、「男性疑惑」が飛び出したことも記憶に新しいところだ。疑惑の渦中に置かれたのは18歳の女子800メートル金メダリスト、キャスター・セメンヤ選手。公の場ではこの件に関するコメントを控える状況が今なお続いているが、そうした中、地元南アフリカの雑誌「YOU」の表紙に女性らしい装いで登場し、欧米メディアが相次ぎ報道している。

http://narinari.com/Nd/20090912275.html

シドニー時事】11日付のオーストラリア紙シドニー・モーニング・ヘラルドは、男性ではないかとの疑惑が浮上していた陸上の世界選手権ベルリン大会女子 800メートル優勝のキャスター・セメンヤ(18)=南アフリカ=について、医学的検査の結果、男性と女性の生殖器を持つ両性具有であることが分かったと報じた。

http://sportsnavi.yahoo.co.jp/other/headlines/20090911-00000069-jij-spo.html

 まだ、はっきりしたことはわからない段階での話。ただ、仮にオーストラリアの新聞が報じた内容が正しいとしよう。とすると、そうとうな偶然が重なったことといえるかもしれない。……というか、俺は生物、身体、性とかジェンダーとかをめぐる概念について明るくないからよくわからないことの方が多い。

半陰陽は、遺伝子、染色体、性腺、内性器、外性器などの一部または全てが非典型的であり、身体的な性別を男性や女性として単純には分類できない状態である。

 たとえば、この記事のケースとすると、内性器が非典型なので、半陰陽ということになるんだろうか、など。
 
 また、果たして半陰陽として、それが身体能力、競技力にどれだけ影響があるかということもあるだろう。「卵巣がなく、男性ホルモンのテストステロンを大量に分泌する精巣が体内にある」ということが、どれだけ能力に影響したのか、ということ。そしてそれは、競技における性別の範疇を超えてしまうようなものなのか、ということも。
 そうだ、単に男性が女性の中に混じってさえいれば、スポーツで勝てるかといえば、そんなことはないからだ。たとえば、あらゆる年齢の俺があらゆる年齢の女子大会に出たところで、一等賞になることなどいっさいありえないであろう。だからこれは(この記事の通りとして)、まれに現れるであろう半陰陽の人が、まれに現れるトップクラスのアスリートであるという、偶然に偶然が重なったことなのだと思う。
 

スポーツ男女別

 半陰陽インターセックスの人を、男女別スポーツでどう扱うか。

同紙は、セメンヤは同大会での金メダルを剥奪(はくだつ)されることはないものの、2位だったケニアのジェネス・ジェプコスゲイに別に金メダルが与えられる可能性があると伝えている。 

http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2009091100392

 すっぱ抜き的記事の可能性となると、ほとんど飛ばしに近いかと思うが、こんなこと書かれている。仮にこうなれば、なんというか、なんともあいまいな、という印象はある。「別の金メダル」の是非。
 正直、是非、わからない。たとえば、男女のほかにインターセックスのパートを作るのも、その中にいろいろの段階などもあるだろうし、また、なんというか競技人口的な問題もあるかもしれない。ただ、女子の範囲を逸脱しているようだからといって、男子に含めるというのでは、またそこで、詳しいことはわからないが、セメンヤ選手に男子として不利な身体的特徴があるとしたら、それも問題かもしれない。
 問題……。そうだな、たとえば、社会的に、文化的に、あるいは法的に、なんというか、性別はあいまいでいいと思うんだ、俺は。このあたりは、むずかしい学問の話になるのだろうし、よくわからないことが多すぎるが、性についても、性愛についても、適当でいいんじゃねえの、というような。
 でも、これがこと、スポーツとなるとどうだろうか。性別による身体能力の差が、圧倒的な差になりうるような競技。やはりそこは、マシーンとしての身体というか、メカとしての身体というか、フォーミュラマシンとしての身体というか、そのあたりが問われてくると、そのように思える。そこに参加したいのならば、要求されたスペックを満たさなければならない、というような。
 それは、性に限らず、体重別なんかもそうだ。やっぱりそこ、ヘビー級の選手がライトフライ級に出たいといっても、そいつは無理なんだ。それで、たとえばちょうど階級の狭間くらいがベスト体重で(ライトフライでは減量が厳しいが、フライではパワー不足、みたいな。いや、ボクシングは細かいから、そういうのは少ないのだろうけど)、そのあたりに泣く選手というのも出てきてしまう。しかたないというと残酷だが、やはり仕方ないのか、などとも。ただ、セメンヤ選手の場合などは、階級の狭間の選手が工夫のしようがあるのに対し、どうしようもないというところが違うようにも見える。
 もし、セメンヤ選手が男子として優勝して、それで実はそういう体かもしれないという話になっても、問題にはならなかった……だろう。いや、もしかしたら、よくわからないが、なにか別の競技で、どうしても男性器が邪魔になるものがあって、それがないために、男子の筋肉・骨格+男性器なしということで、強烈に強まってしまった選手がいたらどうするだろう、などと。
 まあ、しかし、この陸上競技については、たとえばものすごい速い女性が、男性に挑む分には、それもまたなにか文句あるかもしれないが、それほど文句言う人はいないだろう。でも、たとえば、ウサイン・ボルトのように足の速い、肉体的に男性の人が、それが本当であれ、自分の認識で自分は女性なので、女性大会に出たいといっても、それは認められないだろうし、もし認められて優勝しても、二位の選手に「別の金メダル」が授与されることになるだろう。このあたり、自分の趣味の競馬についていろいろ例を挙げたくもなるが、まあそれはやめておく。
 人間というのは、身体も脳も、工業機械やプログラムではないのだから、だいたいの設計は似ていても、文字通りの千差万別であって、そのあたりはむずかしい。あるていどは大きな枠でくくって、グループ分けして、マジョリティを形作れるが、それだけで割り切れるものではない。また、マイノリティと可視化されるマイノリティばかりでなく、さらにわからない、本人にもわからないような、そんな数少ない例、などというのもあるかわからない。そこまできて、個性というのかどうか、それもわからん。

人間スポーツ問題

 というわけで、これはなんというか、やはり俺は、オスカー・ピストリウスのことを思い出す。

 ‘ブレードランナーオスカー・ピストリウス。両足義足のアスリート。パラリンピックではなく、オリンピック出場を望んだが、かなわなかった選手だ。
 俺は、ピストリウスがオリンピックに出場することには、反対だった。

もちろん、マシンの動力で動くわけではない。しかし、やはり人間を一つの競走機械として見たとき、規格が違うと言わざるを得ない(現状でも、シューズなどのメカニズムが競技に影響しているかもしれないが……)。義足にはいろいろな不利もあるかもしれないが、余りある有利だって提供できるかもしれない。できる、できないではなく「できるかもしれない」という疑念がある以上、やはり無理だと思う。少なくとも、カーボン纖維製というのはまずい。せめて、自然人体と同じメカニズムを持つ、同重量のものでなくては。

 ……はたして、そうか? というところは、これを書いたときもあったし、今もある。あるけれども、やはり、俺は、高性能のフォーミュラ(競技走行専用という意味で)義足というものは、人体以上の可能性があるのではないか、というところに立つ。スポーツが一定のレギュレーションの元で行われる何かである以上は。
 と、またいずれ、この「スポーツ」というものも変わってくるのかもしれない。変わってこないのかもしれない。永遠にこのままかどうかはわからん。性別というものについても、なんとなく二元論に陥りやすい、この概念というもの(じっさい、たとえば俺がいくら気をつけているつもりであれ、そこここにセックスマイノリティに対する無知、無理解が散見されることと思う)、それも変わってくるかもしれない。たとえば、男女別競技も、そんなものなくなって、ふつうにみんな一緒くたになったりするかもしらん。ならんかもしらん。が、今のところは、今のところだ。
 そしてまた、SF的妄想になるかもしれないが、やはり「人間」、「自然な人体」というものも、またあいまいになってくるだろう。下手すれば、ただ走ることに関しては、高性能な義足、かつて歩行を補助するものであったものが進歩したそれが、人体を上回ってしまうような可能性。そのようなことについて、たとえばドーピングがどうだとか、そういう次元以上に、この技術とか、科学とかそういったものにあわせて、いろいろ見直しつついかねばならんと、そのように思う。

9/17追記(外部リンク)______________________

最後に、そうした「個別の」性別検査の主目的は、決してその選手の「性別」を決定することではないということ。主目的は「男性ホルモンの利点を享受しつつ女性競技に出場することはフェアではないので、女性競技への参加資格があるかどうかのみを決定する」ことにある。したがってある選手が仮に女性競技から排除されたとしても、その選手が社会的ないしは心理的に女性として生きてきて、今後もそれを望むのならばそれを必ずしも否定するわけではないということになる。