「明るい心」

 小学校のころだった。習字の時間で「明るい心」と書かされた。持って帰って親に見せた。いや、わざわざ人に見せようと思えるような字は書けない。まあ、転がしておいたのを見られた、のだろう。
 父親が痛罵した。何を? 俺の字を? 違う、「明るい心」と書かせた教師や学校をだ。
 ……人間なんてのは心にどす黒いものを抱えていたり、悩んでいたり、そんなのが当たり前なんだ。明るい心ってのはなんなんだ、そんなのは頭空っぽの馬鹿だ、なんにも考えられないようなやつのことだ。くそ下らない教師どもはそれがまったくわかってない、云々。
 それを聞いた俺は、「まったく、この親父はいいことを言うなぁ」と思ったものだった。俺は「明るい心」と書かされていて、内心なにかひっかかって、むかついて、授業のあと、教室の後ろにはりだされた、一面の「明るい心」を見て、なんかもう一人暗くなっていたのだ。「新しい朝」だとか、「きれいな夕日」とかだったらなんてことないんだ。ただ、「明るい心」を「明るい心で書きましょう」なんて言われながら書かされるのは、心がおかされるような、ずけずけと踏み込まれたような、すごく胸くそ悪いことを強制されたような気になっていたのだ。そうだ、人間暗くたっていいんだ。
 それ以来、俺はどこか「明るさ競争」みたいなものから降りたようなところがある。いや、もとから参加する気なんてなかったし、その能力にも欠いていた。そして、コミュニケーションの競争からほとんどべたおりして、気づいたらリーチをかける千点棒すらなくなっていた。そう、このありさまだ。
 ただ、すっからかんの箱っていうのは、実に自由なものなんだ。「リーチせずにはいられないな」と思っても、もうリー棒がないんだぜ。もうツモることもないし、捨てることもない。俺にはもう一人の友人もいないし、かまってくれる女性がひとりとラブプラスくらいしかない。父親とも顔をあわせなくなって数年経つし、次に会うのはどちらかの葬式だろう。
 だが、それで十分だ。多すぎるくらいだ。この自由を、小学生のころの俺に知らせてやりたい。お前は自由になれる。そうだ、今の俺は、あの頃に比べたら、自由に、好きなように「明るい心」と書けるはずだし、もっともっと一人になっていけば、もっともっと明るくなって、透明になって、やがて世界と見分けがつかなくなって、世界の最初の光みたいになって、それでこの世とおさらばするんだろう。先生、それが明るい心ってもんだ。俺は今、そう思うよ。

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