物語の作り方ってのがわからないんだ。

 なんか俺、毎日毎日こんなに日記垂れ流してて、仕事でもぱらぱら文章書いたりもして、人並み以上に言葉を使ってるという感じはするんだけれども、どうしてもわからんのが物語の作り方なんだ。もう、さっぱりわからん。どうして物語というものが成り立ってるのか、どうやって書いているのか、本当にわからん。物語(のようなもの)を書け、といわれると、もうどうしていいかわからない。まあ、普通に生きていて「物語(のようなもの)を書け」といわれることはなんだけれども、内的な要請がないというわけでもなく。しかし、だ。やっぱり、ぼんやり、なにか書こうにも、なにからはじめていいかわからん。ようするに、書きたいこともないのかもしれないし、それならばそれで書かなくてもいいのだけれども、なにか書きたくなったときに書けないというのも体に悪そうだ。

典型的な設定厨アイデア厨だったおれが、
なんとか物語らしきものを作れるようになったコツ。

 そんなわけで、このようなアドバイスはありがたいので、さっそくブックマークで書いてみたが、はたしてそれが物語なのかどうかよくわからない。ただ、このような図式というのは、なんといったっけ、ナラティヴ・マザー、物語母型のひとつのようであって、そのような型になにかを当てはめていけば、物語らしくなる可能性はあるとは思う。悪くない。
 しかし、はたと気づいたが、設定、アイデアというもの、それはなんなんだ。それか。それが「なにか」だ。そうだ、そんなものを考えたことがなかった。だいたい、この日記で日記でも感想でもないなにかを書く場合、それは俺という俺が俺の見ていないけれども見ているものを書いているだけであって、はっきりいって日記を書いているのとかわらない。設定、俺。アイデア、俺。これでは物語になりがたい。なぜなら、俺の生活というか人生というものは、ほとんど俺の中に自閉していて、他者というものがほぼ存在していないからだ。登場人物が足りない。100文字ならば1人でいいが、それ以上となるとむつかしそうだ。
 いや、べつに物語などというのは自由なものではないのか? バッファローターボUSBハードディスクドライブだとか抗菌スパイラル綿棒だとかウォータリングキスミントだとかが活躍してもいいのではないのか? いや、だめだ。俺にはまだそこに移入できるほどの一如の境地にはあらない。ひょっとして、ウォータリングキスミント「を」書くのではなく、ウォータリングキスミント「で」書くことができたら、それはまったくあたらしいなにかかもしれない。しかし俺はともかく物語らしいものの方に向かって歩いているのだ。その行き先はちょっと違うように思える。ガムの言葉でガムは物語るのかどうか、それはちょっといつかの宿題にしたい。いや、そんな宿題やりっこないんだけれども。
 まあ、こんな具合に、どうも創作というものに対して、過剰な自意識を抱え込んでいて、とりあえずやってみれば? というあたりから逃げて、出し惜しみしつつ、いたずらに馬齢を重ねているわけなのだけれども、せっかくこうやって文章をさらせる場も用意されているわけだし、なにかやりたい気もするのだけれども、今の自分には100文字が精一杯というところもあって、まあそれでももうこれ以上さらにかく恥もないのだし、いくらでも好きなようにやったりやらなかったりしようと考えているのでした。おしまい。