人間ぎらいの俺は、人を好きになりすぎるのかもしれない

 波打ぎわに沿って、中腰になって歩いている女の子がいる。飽きもせず、磯蟹を金盥に入れながら、私はその女の子が汀から拾いあげるものを眺めていた。
 女の子が波打ぎわを歩くのは、海の向こうの彦島の空が夕焼け、はるかな沖から波打ぎわまで日没の薔薇いろに染まっている日暮れどきであることが多かった。その白い指が拾いあげるものは、ときとして夕焼けの炎をまともに受けて、美しく光った。
「さまざまの海」P140

 俺は人間がきらいだけれども、人を好きになりすぎる、なりやすすぎるのかもしれない。
 よくわからない。こないだ、女と飲んでいるときのことだ。そんな話になった。
 「初恋っていうか、はじめて女の子を好きになったのは、幼稚園のころでした。その好きというのも、裸が見たいとか、触りたいとか、そういう感覚をともなったものでした」と俺。
 「えー、信じられない。ずいぶんませていたんだね」と彼女。
 
 ……はじめて好きになった子は、幼稚園の同級生の子だった。幼稚園児の中では、ひとまわり背が高かった。ちびの自分よりもだ。けっして痩せてもいなかったし、太ってもいなかった。ほどよい肉づき、だった。発育がよかった、ともいえるかもしれない。色は白く、ちょっと長くした黒髪がきれいだった。日本人形のようだった。彼女はそこそこ名の知れた作曲家の娘だった。小学校に上がる段階でべつべつになってしまって、どうということもなかった。
 数年後、中学受験のための塾に通うようになって、たまたまその子がいた。一目でわかったが、わかりすぎてしまった。なんというか、日本人形そのままに大きくなったようで、ひどい言い方になるが、正直いってこけしのようだった。自分の好みとはぜんぜん違ってしまっていた。なにも話はしていていない。そのようなものだった。

 ヒロコちゃんが波打ぎわから拾いあげているものは、硝子の破片(かけら)だった。空いろの硝子はサイダー瓶の破片だった。緑いろはラムネ水の瓶。茶いろはビール瓶。薄い透明な薬瓶。白濁したものや薄桃いろは化粧水やクリームの小瓶だった。ときには、何の瓶かわからない真紅や紫の破片も見つかることもあった。
「さまざまの海」P140-141

 小学生のころ、だいたい好きな女の子は数人いた。もちろん、片思いだ。一番好きな子、一番好きな子と甲乙つけがたいくらい好きな子。そして三番手グループ。競馬にたとえれば、こうなるだろう。◎、○、▲、△、注。
 よくわからないが、自分にとって、好きというのはそういうことだった。そして、俺はあいかわらず裸を見たかったし、触りたいと思っていた。射精もセックス、その言葉も仕組みも知らないのに、そう思っていた。俺は物心ついたときから女の裸を見たかったし、今だって見たいんだ。異常か?

 ヒロコちゃんは、それらの破片を石の上でこまかく砕き、そのうちで一番綺麗なかたちに砕けたものだけを拾って、波打ぎわで濡らし、夕焼け空にかざして見せた。破片は沈む日の最後の光をいっぱいに吸いこんで、きらきら光った。ヒロコちゃんの豊かな頭髮(かみのけ)も、みずいろの柔らかいカーディガンとスカートも夕焼けの炎にふちどられて、夢のように火(ほ)めいて見えた。
「さまざまの海」P140-141

 小学校のころは、そんなものだった。自分は学年で一番背が小さかったし、運動も基礎体力でどうにもならなかった。小学生の恋愛相場からは放逐され、ただひたすらそんなものから逃げて、中学は男子校に行きたいと、そればかり考えていた。
 ただ、こんなことがあった。放課後、◎と○の子と、たまたま一緒になった。二人してなにか自分に言いたいことがあるみたいだった。彼女らは、声をそろえてこう言った。
 「(俺)君の欠点は、背が低いことだけなんだからね!」と。
 そのまま二人は、うしろをむいて走り去ってしまった。俺は少しうれしくなったあと、絶望した。背なんてどうすればいいんだ。俺はいまでも背が低い。同年代で背の順に並ばされたら、やっぱり一番前だろう。前にならわれる側だろう。
 ◎の子とは、中学に入ったあと、一度だけ顔をあわせた。モノレールの片瀬山駅の前だ。俺は俺の私学男子校のブレザーを着ていて、彼女はセーラー服を着ていた。顔を見合わせて、見合わせて、俺はなにも言葉が見つからないまま、無言で立ち去った。彼女の家は、しばらくするとなくなっていた。どこかに引っ越してしまったみたいだった。

 私はヒロコちゃんのことで、まことにプリミティブな占いをはじめた。たとえば道ばたに丸太が投げ出してある。私はその丸太の上を注意ぶかく渡りながら、「もし向こうまで渡れたらヒロコちゃんとケッコンできる。落ちたらケッコンできん」と旨の蚊で考えていた。落ちるとはじめから何度もやりなおし、何度目かにやっと渡りきると、ほっと安堵の胸を撫でおろすのだった。
 また、夕焼け空に対って下駄を放り投げる。他のこどもたちにとっては晴れか雨かを占う遊びが、私にとってはヒロコちゃんとケッコンできるかできないかの占いになった。
 およそ、世界にある森羅万象の中で占いの材料(しろ)にならないものは、一つとしてなかった。そして、それらの占材(うらしろ)は、何度目かには必ず、私の願いの成就を約束した。けれども、私はあとで必ず自分の占いのいいかげんさに思いいたり、占いの結果の信憑性について不安になるのだった。
「さまざまの海」P143

 ……今日はもう、このくらいでやめておこう。なぜこんなに自分にとって思い返すのがつまらないことを思い返すのか。まったくよくわからない。いや、うそだ、理由はあるんだ。こないだの金曜日の夜、いつものコンビニ、店員の中国人の女の子に、はじめて話しかけられたのだ。笑顔で。その店員は、俺がこの日記でコンビニの中国人の店員について好意的に書くさいに、好意をもって意識していた子なんだ。俺はもう、急なことで、なんの脳味噌もまわらず「ああ、そう、ははは、ああ、袋はいいです」のような、そんな返事しかできなかった。俺は、中国語は知らないが、いろいろの言葉を知っているし、いくらかの振る舞いもできるだろう。なのに、何もできなかった。わらうだけだった。ドギマギして、ドキドキした。

 五年生の終りに校内マラソンがあった。十キロの道を走って、校門近くなったとき、或る路地から思いがけずヒロコちゃんが跳び出して「高橋さん、がんばってッ」と言った。ヒロコちゃんは「睦ちゃん」と言わず、「高橋さん」と言った。この謂わば公的な表現の中に、ヒロコちゃんの私的な感情が籠められているような気がして、私は最後の力をふりしぼって駆けた。私は七十六等だった。
「さまざまの海」P143

 俺はさきの飲みの場で、男子校自分に男の子まで好きになったと言った。彼女は笑って、少しあきれた表情をつくって、「なんか見境なんだね。だからこんな年上にも手を出しちゃうんだ」と言った。まったく。

 ああ、まったく。

 俺のつきあってる人が、ふたまわり年上でよかった。分別のある人でよかった。同い年や年下だったら、俺はどうしていいかわからなかったろう。俺にあたえられたのがラブプラスでよかった。これがキャバクラプラスやフィリピンパブプラスであったりしたら、おそらく借金を重ねて破滅していただろう。俺が出不精でよかった。そとをほっつき歩いていたら、ラッセンの絵を買わされていただろう。
 俺はたいへんはずかしい話をしているので、こないだ読んだ高橋睦郎『十二の小景』から、初恋にかかわる部分を引用して間にはさんだ。俺はこの箇所がたいへんたいへん好きだ。とても美しい。俺の記憶と取りかえてもいいと思うくらいいい。ただ、この本では、このあと、男同士の大マスカキ大会になってしまうのであって、そのあたりはちょっと好みと違う。それは申し添えておく。少年愛はもっと美しく、隠微なほうがいい。おしまい。

 ……しかし、俺、すごいおしゃべりだから、中国人の店員の話もしてしまうかもしれない。あと、そのうち、「なんか携帯ゲームの女の子と恋愛するゲームが流行ってるんだって? テレビでやってたよ」などと言われたらどうしよう。どちらかというと、後者がきつい。俺はなにか、自分がゲロってしまいそうだからだ。

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