あの素晴らしい愛、その他の悪霊について

また、北山修さんとのコンビで71年に発表したヒット曲「あの素晴らしい愛をもう一度」は合唱曲としても支持された。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20091017-OYT1T00616.htm

 そうか、合唱曲としてもスタンダードだったのか。この曲、僕は小学生のころ歌わされた。合唱でだ。てっきり、音楽教師の趣味を押しつけられただけかと思っていた。なにせ、歌詞の内容が、どうも小学生が歌うようなものとは思えなかったからだ。

命かけてと 誓った日から
素敵な思い出 残して来たのに
あの時 同じ花を見て
美しいと言った二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴しい 愛をもう一度
あの素晴しい 愛をもう一度

 「もう一度」もなにも、まだ僕らにとって「愛」も「恋」も、あいまいな未来のものだったからだ。いや、もちろん好きな子くらいはいたけれども、小学生はなかなか命をかけて愛を誓いはしないのだ。

赤とんぼの歌を 歌った空は
何にも変わって いないけれど

 むしろ、今が、小学生である今が、なにか変わる前の空なんじゃないのか……。
 などと思っているうちに、だんだんと、自分がとても感傷的になるのを感じたものだ。そのとき好きだった女の子と自分のこと。もちろん、恋人関係なんてものはありえないころだったけれども、なにか、勝手に、愛についてとらわれ、またそれが失われたような気がしてきたのだった。

 私はヒロコちゃんのことで、まことにプリミティブな占いをはじめた。たとえば道ばたに丸太が投げ出してある。私はその丸太の上を注意ぶかく渡りながら、「もし向こうまで渡れたらヒロコちゃんとケッコンできる。落ちたらケッコンできん」と旨の蚊で考えていた。落ちるとはじめから何度もやりなおし、何度目かにやっと渡りきると、ほっと安堵の胸を撫でおろすのだった。
 また、夕焼け空に対って下駄を放り投げる。他のこどもたちにとっては晴れか雨かを占う遊びが、私にとってはヒロコちゃんとケッコンできるかできないかの占いになった。
 およそ、世界にある森羅万象の中で占いの材料(しろ)にならないものは、一つとしてなかった。そして、それらの占材(うらしろ)は、何度目かには必ず、私の願いの成就を約束した。けれども、私はあとで必ず自分の占いのいいかげんさに思いいたり、占いの結果の信憑性について不安になるのだった。
高橋睦郎『十二の小景』「さまざまの海」P143

 僕もたぶん、こんな占いをくりかえしていた。自分の恋は、約束された恋だって、そんな風に思って、当たり前だったんだ。ああいう気持ちはもう抱けないだろう。あの素晴らしい愛、あの素晴らしい初恋……。
 そんなことを思い出すのに、あの合唱曲がセットになって出てくるとは、ちょっと抵抗もあるのだけれど。なぜって、僕は音楽の授業も、合唱も、音楽の教師もみんな嫌いだったからね。でも、そうだ、たぶん「あの素晴らしい愛をもう一度」はすてきな曲だ。それはたしかなんだ。だからたぶん、そのうち『そらのおとしもの』のエンディングで歌われることになると思うし、たぶん、次の『ヱヴァ』でも挿入歌として使われるに決まってるんだ、とかね。

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