さて、帰るか。

 ここのところ悪くない。就寝から明朝まで二度か三度目を覚ますのが気になるが、昼間にそれほど眠くなるということもない。競馬も自転車も読書もアニメもそれなりにうまく回っているように感じる。金はあいかわらずないが、心臓をえぐるような恐怖からは解き放たれている。
 それでも、なにかがおかしい。なにかがたりない。俺はやりたいことをしていない。そのように思う。俺がやりたいことがなにかといえば、ただただ言葉を打ちつづけることだ。だからこうしている。できれば、それが仕事になればいい、それで飯が食えればいうことがない。なに、べつに小説家や詩人になりたいというわけではない。この職場に転がっている、場合によっては自分に割り振られる仕事についてだ。とくに誰も喜ばないような、そこにあればとりあえず満足されるような言葉だ。それでもいい。
 だが、それがかなわない。べつにここに、自分以上に言葉をあつかえる人間がいるわけではない。それはだれもがわかっている。わかっているけれども、俺が持ってる俺自身が自信におもわない能力の方が、重宝される。それについての俺の乏しい知識、当て勘が、重宝されてしまう。俺はそれに時間をとられてしまう。そして、文章を書けない不満を、こんなふうにして吐き出すから、ますます時間がない。
 では言葉はどうなる。みんな言葉を、文章を甘く見すぎている。イラストは絵の描ける人間に頼むものなのに、文章となれば、誰でも書けるものということになっているみたいだ。お客さんの持ってきた文章、適当に突っ込んで、それで、最後に誤字脱字を、てにをはを直せばいい、そんな調子だ。そこのところが悲しい。
 が、しかし、文章で飯を食うというのは、その誰でもできるということの中で、ほかの誰でもを圧倒しなければならない。それはすさまじいハードルの高さだ。だいたい、たとえば、ここで俺が見下している言葉というのは、世の中の99%のブログでは見られないレベルのものだ。自分から文章を垂れ流そうという、誰かに見せようという人間には、ありえないレベルのものだ。
 ただ、世の中、ようするにブログの外などそのようなものだ。大の大人が、社会の中で先生と呼ばれるような人間が、平気の平左でひどい文章を書いてくる。その落差というのは、たぶん、メディアの言葉、ネットで流通している言葉しか目にしていない人には実感しにくいだろう。
 ただ、しかし、そんななかにも、どきりとしてしまうような名文、名文としか呼べないようなものも存在してしまう。文法がどんなに間違っていても、誤字や脱字がひどくても、胸を打つ名文というものが出てくることがある。名文の定義とはなんぞや、と問われてもわからんが、俺の中でひとつ確かなのは、「減点法で名文をはかることはできない」ということだ。ほとばしるようなプラスがあれば、それで名文になりうると、俺はそう思う。
 と、まあ、ここまで書いて、やはり俺の言葉はどうなのだ、ということになる。ある種の実用文をそつなく書くことはできる。だが、人を笑わせたり泣かせたりするような、そう、いくらかのプラスをふくむ文章を書けるのか。いや、まぐれ当たりで書けることがあるとしても、それをコンスタントに書けるのか、というと、かなり自信がない。
 俺は文章がうまくなりたいと思う。ますます、ますます。だが、どうも、こうやって言葉を書けば書くほどどんどん薄まってきているような気もする。たまに、四年前、五年前の自分の日記を読み返すと、おまえの方がよほどうまいじゃないかと、そう思うことが多い。俺が頭の中をアウトプットせざるをえないのは、もう病気のようなもの、あるいは息をするようなものであって、決して「文章力向上のため」にやっているわけじゃない。でも、いくらか自転車に乗っていれば、それなりに脚の筋肉がついてくるように、いくらかは向上してもいいような気はするじゃないか。しかし、どうも俺は薄まっている。
 だったら、もう、人が重宝する、しかしそれで飯を食うのがおこがましいようなことで、なんとかだましだまし生きていくしかないのだろうか。いや、しかしなんだろう、それで十分ではある。だいたい、ぜいたくな悩みでもある。ここまでのぬるま湯というのはえがたい。が、この環境がいつまでつづくかも不明瞭だ。いや、つづかないことはわかっている。かといって、ぬるま湯を守るために粉骨砕身の努力をするというのは、まったくイメージできない。それもおかしいように思う。俺はこのまま、なんのスキルも、実績も、経験もなく、仕事のつまみぐいのようなものだけを、その場しのぎを繰り返して、いつか放り出されるのだろう。そうだ、俺はどこまでも中途半端だ
 そしてなお、俺は言い訳する。しかも、その言い訳が言い訳ではないような気がするので、たちが悪い。俺が、この環境を捨てると、俺以外に迷惑がかかる。迷惑といっても、なんというか、ちょっとたいへんになるというのではなく、たぶん、ひょっとすると、致命的なのだ。俺がどれほどのものかというと、ちっぽけなものだろう。ただ、それが、いつの間にか、けっこうな比重を担ってしまう。それが、かなりミニマムな組織の規模というものなのだ。さすがにそれはできない。俺はここに助けてもらった、命を助けてもらった。そしてなお、今の俺を庇護し、やしなってくれている。いわば運命共同体、のようなところだ。すくなくとも、俺はそう思っている。そして、俺の個人的な、とても個人的で大きな感情から、あと三年は続けなくてはならない。そう思う。ただ、そのあとの、そう遠くない未来、時期が来れば用を終えてなくなるだろう。
 しかし、そのために、俺はいまからビジネスマンになろうという気になれない。かといって、なにか独立した技能で生きていける気もしていない。ただ、ぬるま湯につかって、そこから出たいのか出たくないのか、出られないのか出ないのかも判然としないまま、風呂につかっていて急死してひどいことになってしまった死体のように、この日々を送っていく。俺の言葉は、日記に乗って、ブックマークに乗って、つぶやきに乗って、ますます軽くなって、消え失せていくだろう。俺の皮膚も、肉も溶けて、そのうちしゃれこうべだけが、あなたに向かってなにか言うことになるだろう。
 ……それでも語ることをやめないのかな、俺は、まったく。

追記:しかし、書き終わってみると、ものすごく自分の気持ちと乖離している。どっかで取り繕ってる。見え見えだ、こんなの。たんに勇気がないだけでしょ。そうだ、ぜんぶ書いた途端にうそになる。言葉はうそそのものなのか。あるいは、「さて、帰るか」でいつも垂れ流しているような書き方が、そうさせるのか。もっと、考えて、推敲して、あとから見返して、誤字脱字をさがしたりして、そっちの方が、本心を書き写せるのだろうか。世の中に、思いの丈を言い切るような、そんな言葉はあるのか。思いの丈、そんな丈があるのか。俺は言葉になれない。かといって、言葉のない俺は俺なのか。よくわからないし、これに意味があるのかというと、あまりないような気もする。

追記の追記:なんというか、殺した言葉に対して責任を取れない、その弱さかもしれない。いつだってイクスキューズを考えている。逃げ道、帰り道をさがしている。その弱さをさらけ出すことで、さらにその弱さを強調して、きりのない自己憐憫と自己愛の環に陥る。それをどこかで叩き斬って、一匹の蛇になれたらいいのに。