秦剛平『ヨセフス イエス時代の歴史家』を読んだ。

ついに『ヨセフス』をてにいれたぞ!

ヨセフス (ちくま学芸文庫)

ヨセフス (ちくま学芸文庫)

 ともかくWikipedia読め。

 ……どうだろうか、なんか興味深い人物じゃないだろうか。なにか俺は、自決未遂、「ヨセフスのくじ」のエピソードもふくめ、すごく惹かれたのだ。興味深い、と。そう思ったのは、なにか聖書時代の遺跡などが、現代でもいろいろと残っているという本の紹介を、どこかで読んだから……と、思っていたら、自分で読んで自分でメモまでしていた。

キリスト教世界では聖書と同時にこのヨセフスの著書が大きな地位を占めるらしいが、はじめて名前を知った。この人物もとても興味深い。この人に関する本も欲しい。

 ここの最後でちらっと触れている。この本で、ヨセフスを知ったのだ。それから苦節三年、ようやくAmazonの古本で、常識的な値段で売られているのを発見し、入手できたというわけ。しかしまあ、ちょっとなぜか聖書まわりに興味を持った俺だが、その後は禅あたりに興味を持ち、ここのところといえば、アナーキストやら革命家やらばかりの本ばかり読んでいる。いきなり聖書時代に飛んで大丈夫かと思ったが、大丈夫、いや、実におもしろかった。
 この本、だいたい大きくふたつに別れていて、前半はヨセフスその人の生涯、後半はヨセフスの著作が、誰に、どのように読まれてきたか、という歴史。それで、もちろん、ヨセフスの生涯も謎が多く、興味深く、この著者の大胆な(たぶん)推論も、そうなのかどうなのかはわからんが、とても面白く読めた。そして、思いのほか後半も面白い。これは意外な収穫だった。

書物と歴史と

 そもそも、えーと、なんかべつに本の中身要約してもなんだし、そこはみんな本書を読め。ともかく、後半の方で、ヨセフスの著作がさ、こう、キリスト教徒に取り込まれていく皮肉というか。それが、その、反ユダヤ主義の典拠みたいな形で使われたりする。教父級の扱いになってたりする。十字軍が攻め込むにも、地誌、地理の資料として、ヨセフスの著作が使われてたんじゃないかと推測される。近代の中東戦争でも、古代の地図や記述が有効だったとかいう話が『聖書の旅』に書いてあったっけ? べつの本かもしれない。で、ともかく、あのあたりの風土っていうのはそういうもんなんだな。すると、歴史観なんかも、この東アジアとは大違いだろうな、みたいな。
 一方で、ユダヤ人社会はヨセフスを裏切り者と見ていた(そりゃそうだ)上に、そもそもの書かれた言葉の問題もあって、なかなか行き渡らず、でも、二次大戦後、マサダの発掘などにいたって、再評価というかなんというか。うーむ、というか。やっぱり歴史スケールが、というような。そんでもって、その、写本っつーのか、誰が、どう、どのようにってさ。それで、また、それをなんか検証していく、聖書学? みたいな? ある種、暗号解読のような、そのあたり。それが興味深いんだ。

キリスト証言

 それで、やはり触れられているのが、「キリスト証言」。聖書のほかのイエスについての言及とされるもの。『古代誌』からエウセビオスの『教会史』の中に引用されていると、本書でも孫引きというかなんというか、されている。あと、「この証言はラテン語でTestimonium Flavianumと呼ばれたりする」ってあって、Testimonium Flavianumで検索したら、Wikipediaの英語ページがひっかかったから、ウィリアム・ウィストン(本書でも紹介されている)訳の英語と、その元になったギリシア語を載せておこう(文字化けするからやめた)。

 さてこのころ、イエスス(イエス)という賢人―実際に、彼を人と呼びことが許されるならば―があらわれた。彼は奇跡を行う者であり、また、喜んで真理を受け入れる人たちの教師でもあった。そして、多くのユダヤ人と少なからざるギリシア人とを帰依させた。彼こそはクリストス(キリスト)だったのである。ピラトス(ピラト)は、彼がわれわれの指導者たちによって告発されると、十字架刑の判決を下したが、最初に彼を愛するようになった者たちは、彼を見捨てようとはしなかった。(すると)彼は三日目に復活して、彼らの中にその姿を見せた。すでに神の預言者たちは、これらのことや、さらに、彼に関するその他無数の驚嘆すべき事柄を語っていたが、それが実現したのである。なお、彼の名にちなんでクリスティアノイ(キリスト教徒)と呼ばれる族は、その後現在にいたるまで、連綿として残っている。
P.205

Now there was about this time Jesus, a wise man, if it be lawful to call him a man; for he was a doer of wonderful works, a teacher of such men as receive the truth with pleasure. He drew over to him both many of the Jews and many of the Gentiles. He was [the] Christ. And when Pilate, at the suggestion of the principal men amongst us, had condemned him to the cross, those that loved him at the first did not forsake him; for he appeared to them alive again the third day; as the divine prophets had foretold these and ten thousand other wonderful things concerning him. And the tribe of Christians, so named from him, are not extinct at this day.

 で、これに、キリスト教が大喜びで飛びついたというか、語り継いできたと。でも、ユダヤ教徒ヨセフス自身の信仰面から、これ、おかしくねえか? という、そういう疑問は当然出てくると。どっかで、写本していく間のどっかで、誰かが、加筆したんじゃねえの、というそういう可能性が高いんじゃないの、と。
 でも、けど、全部、ここの全部が嘘っぱちと言い切ることもできない。イエスについての、あっさりした記述があったかもしれない。あるいは、ほかの偽預言者と同じように、強烈にディスってたかもしれない。

 もしヨセフス『古代誌』にイエスに関して何らかの記述があったと仮定できても、われわれは現存するテクストのギリシア語の文体や語彙、物語を導入する語句、物語単位の短さなどから判断して、本来のテクストは、キリスト教徒にとってはなはだ不都合な記述があったために大きなダメージを受けており、その復元は不可能であると主張したい。
P.211

 とあるわけだ。それでもって、話はまだあって、このエウセビオス以前に、誰もこの証言を引用していない、とか、師匠筋のオリゲネスなんかは「この著者は、イエスをキリストと信じなかったが……」とか、「彼はイエスをキリストとして受け容れなかったが……」とか書いたということで、そこんところの間に、なにかがあったんじゃないのか、とかさ。なんか、こう、歴史ミステリーじゃねえけど、そんなところはあるよな。

 われわれはここでこれ以上の「犯人探し」は打ち切るが、ここで覚えておきたいのは、ヘレニズム・ローマ時代、現代人の目から見ればテクストの改竄と思われる行為、すなわちテクストに加筆したり、それから一部の不都合な箇所を削減したり、その内容を潤色したりする行為は、そうすることが「適切」であれば、社会的に許容されたばかりかアート(職人芸)であるとさえ見なされていた事実である。

 で、こうくるわけだ。なんと、まあ厄介な。それに、だいたいヨセフスとて、歴史家、それはもうほんとうに替えの効かない貴重な時代を生きた歴史家なんだけれども、ただ、ヨセフスの記述がポジショントークであること(投降したユダヤ人。彼を救い、取り立てたローマとフラウィウス家を持ち上げなければならん立場)、そしてまた、ストーリーテラーとしておもしろく書いちゃってるという、そのあたりまであるっつーんだからな。
 なんか、このあたりが、好きだな。長い長い時間をかけた『ロスト・イン・トランスレーション』というか。俺、なんかそういうのは好きだ。なんなんだろう、それは。

上の例でも、別に「量子力学萌え」とか「流体力学萌え」と言いたいわけじゃなくて、「同じモノを見てるはずなのに、量によって全く別モノになっちまうんだよね、水分子に限らず、世の中ってそういうの結構あるよね」萌えというか。

なんかさ、「萌える」対象は、人間の形をしていなくたっていいと思うんだ..

 そう、なんかこれを思い出した。俺はべつに古書に萌えているわけでもないし、エウセビオス萌えでもない。ただ、なんか、「あることがらや言葉が、時間や文化や言語の間を移動していくうちに、意味が変わってきたりするよね」萌え、みたいのはあると思う。それでもって、なんかもう、西暦ゼロ年代とかいうと、SF的な距離感すらあって、なんかたまらんところがあるのだ。
 それじゃあ、次は、ヨセフス伝読むし、そんな感じで。

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