俺が昔ツイッターだったころ

 ふと思い出した。俺が小学校の三年生か四年生のころだ。俺の作文が学校のコンクールかなにかで選ばれて、文集に載った。各学年一人か、各クラス一人かは忘れた。とくに決まったテーマもなかったかと思う。ある人は遠足の思い出を書き、ある人は運動会の思い出を書く、そんな感じだった。
 俺はといえば、「朝起きて、着替えて、飯食って、家を出る」という、そんな内容だった。なんのイベントも起こらない、ある日の朝だ。日常すぎる日常だった。そんなのを書いたのは俺ひとりだった。友だちの家で遊んでいたら、そのお母さんから「○○君の作文は大人びていておもしろいわね」と言われたりした。
 日常のことを書きたい。書いていた方がおもしろい。俺はそういう子供だった。理由は明白だ。俺は東海林さだおになりたかったからだ。

東海林さだおを与えられたのは、漢字交じりの文章が読めるようになってすぐだ。父が「文章とはこのように書かれるべきものなのだ」と俺に与えたのだ。読み聞かせられる絵本や童話を脱し、自ら読みはじめた最初の文章が東海林さだおのコラムだった。

『明るいクヨクヨ教』東海林さだお - 関内関外日記(跡地)

 というわけで、俺はブログなどというものが、ツイッターなどというものが生まれるはるか昔から、他人にとってどうでもよい、あるいはイベントと見なされることもないようななにかを書きたかったのだ。ただ、日記を書くという習慣もなかったし、俺は俺の字が大嫌いだし(俺にも読めないので)、今、このようなツールが与えられているというのは、幸いなことである。時代が俺に追いついたのだ。違うか。まあいい、なんか、そんな話だ。

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