外食と疲弊

 この手の話題について「どこだって言う」「当たり前だ」と素直に言える人間の魂をうらやむ。だいたい、マクドナルドのどこで「ごちそうさま」というタイミングがあるのか、魂に恵まれたものはマクドナルドで飯を食わぬか、それとも一人で食わぬか。たとえば、こちらの退店と店員の清掃のタイミングが重なれば、向こうはこちらに「ありがとうございました」と言うだろうし、それにカウンターで「ごちそうさま」を返すこともできよう。しかし、そうでもない場合だ。どこで、どんなタイミングで、どのように言うのか。口に出して言うのか。また、深夜のなか卯、店員一人ないし二人体制で、厨房の中に入っているタイミング、フロアに客のみという状況下において、いちいち厨房に向かって大声で「ごっそさん!」などと呼び掛けるのがよいことなのか、それは店内の平穏を乱さないか、だいたい店員に退店を気づかれなくても、センサーが気づいて「アリガトウゴザイマシタ」と言うではないか。センサーにも気づかれず出て行きたいところがある。そもそも疲れているときはすき家よりなか卯をえらぶ、疲れているときは店員に食べたいものを告げて、食べ終えたら「ごっそーさま」とか言って呼びつけて手渡しで金を払うことすらおっくうであって、それもまた注文のタイミングから退出のタイミングまであらゆる要素を計算して滞りなく行われなくてはならず、その点、万が一後ろに人が並べば目をつぶって牛丼のボタンでも押せばいい食券自販機先払い形式のなか卯がよいわけであって、この世にすき家なか卯がともに存在するのはそういう神の配慮からであろうと思う。いずれにせよ、食い終わったあとに手渡しで金を払える店については、「ごちそうさま」を言うタイミング問題については楽であって、ごちそうさまを繰り出すタイミングについては苦慮するところがない。中華街の小店舖などで店の人が話しかけてくれば、「寒いですね」「そうですね」くらいのキャッチボールまでできよう。ただ、「おいしかった」かどうかについては、これは自分のなかの本当の満足度との兼ね合いもあって、自分にウソはつけないし、ウソをついてまでそのコミュニケーションを取ろうとは思えない。だいたいコミュニケーションをとるということはなにか荷物を背負わされるようなことであって、「ごちそうさまを言うタイミング問題」よりも、その点の苦しさがあって、その重荷というのは、たとえば「ごちそうさま」と言うことではなく、「言い損ねた」ことによってあとあと引きずるところもあってとかく面倒くさい。飯くらい自由に食いたいと思うし、食券なら食券で完結して、ロボットが配膳しろとか思うし、この俺がどうもこのわけのわからない思考を四六時中張りめぐらせながら、まるでジャングルの中を歩く兵隊のような心持ち、レーダーで周囲を監視し続ける哨戒機のような心持ちで飯屋に入るなどということは、おおよそどの程度の人間に共有されることかはわからぬし、おそらく俺が狂い気味なのはよくわかっている。お前にいわれんでもようわかっとる。

 牛とじ丼を食い終え、茶を飲み干す。ここからなか卯で取るべき行動は一つ。席を立ち、店を出る。食券システムにより、支払い行為はすでに終えているのである。しかし、牛とじ丼によって咎人の意識に苛まれたばかりの俺には、それがいっそう重くのしかかる。飯を食い終え、金を払わずに、店を出る。一般にこれは食い逃げ、無銭飲食の罪である。俺は店員に「食べ終えましたよ」という動きを見せるべきなのか、それとも本当に盜人のように音もなく消えるのが正しいのか判断つきかね、逡巡の挙げ句逃げるように店を出る。背中に「ありがとうございました!」「またお越し下さい!」の声が突き刺さる。これがナザレのイエスを貫いたロンギヌスの槍であることは論ずるまでもない。

丼の深淵、偽りの帝国/ゼンショーグループ二品 - 関内関外日記(跡地)

 その時の、俺の心境はどうだったか。まずなによりも、すがすがしかった。妙な気分だったが、すがすがしい。タッチパネルを誤操作したのはわれわれだし、その証拠はログに残っている。機械、端末、情報伝達。油そば二杯。二杯、いけるか? いけるだろう、いってみせるさ。愉快なほど早く、俺は油そばを二杯食いきった。俺はいつか、ラーメン二郎に行きたいと思う。ただ、ラーメン二郎は端末ではない。呪文を唱える。それが気がかりだ。

大通り公園でビールを飲みつつ、タッチパネル注文の操作ミスで油そば二杯きたときのことを考えた - 関内関外日記(跡地)