けいおんと現実について〜第6話「梅雨!」より〜

 『けいおん!!』の第六話である。私はこれを見ながら、なにか新しい回を見ているという感じがしなかった。私はこれを知っている。デジャヴよりももっとはっきりした感覚だ。この先、どのような展開になるかだいたい知っているし、だいたいそのようになる。
 が、あるシーンで私はハッとした。「そうだ、私が知っているのはコミックスだった!」と。
 そのシーンとはどこか? あずにゃんの「むったん」に対して、紬が「ぴったりな名前だと思うわ」とリアクションするところだ。そう、ここである。ここに極まる。ここで「そうだ、これはアニメだ!」と気づいたのである。ここは、コミックスとアニメではっきりと内容が異なるのである。
 ネタバレになる。しかし、いまどきけいおんを知らぬ人間など、宇宙ステーションに滞在しているやつくらいだろうから、書く。コミックスでは、紬は完全にあずにゃんの心を読んだのである。それで話は終わりだ。落ちた。すばらしい。はっきりいって、コミックスのこの回で一番いい。
 が、アニメではどうだったか。「あずにゃん、声に出して言ってたわよ」なのである。そうだ、現実で、人が他人の内心などを読めるはずがない。もしそんなことを言うやつがいたら、そいつはインチキなのだ。それがリアルというものであって、漫画とは違うのだ、漫画とは。それを痛烈に感じずにはおられない。
 と、何が漫画とは違うのか、漫画とは。答えは明白である、アニメだ、アニメ、アニメじゃない? 本当のことさ? 知った話か? コミックスはコミックスのけいおんであってすばらしく、アニメのけいおんけいおんであってすばらしいのだから、どこまでいってもすばらしいの波が来ている。だまってそれに乗ればいい。
 が、そもそもにおいて、コミックスだのアニメだの、好きだの嫌いだの誰が言い出したのだ? そう、冒頭に買いた通り、私は夢うつつでけいおんを見ていて、その「けいおん」はコミックスでもアニメでもなくけいおんなのである。私は「けいおん」を見ていたのだ。それはメディアの差異などない、けいおんの世界である。世界そのものである。そのけいおんの世界には私の見聞きしたあらゆるけいおんが含まれる。そこにはヤンデレの憂も含まれるだろうし、「あちゃー唯の奴とうとう死んじゃったか」も含まれるであろう。
 そうだ、そのとき、また私もけいおんであった。我とけいおん不二の境地にあって、けいおんを見ていたのである。けいおんが見られていたのである。しかし、私もまたその境地に長くおられない。未知と既知、漫画とアニメをそれぞれ渾然として受容し、我が身そのものがけいおんになりながら、紬の一言によって我に帰ってしまった
 もちろん、帰るべき我を失っては、こうしてここでこうやってこのようにしている私もない。しかし、そこでまた、紬があずにゃんの心を読む世界と読まぬ世界を、分かつものとしてでなく、分かたぬものとして、そこに没入できていたらなら、とも思う。
 そこでこそ我が身がシュレディンガーの猫となり、また南泉となり、斬られる猫となり、そのすべてが不可分のものとして同時にあり、また過去もこの一瞬もその未来も、また起きたことも起こらぬこともすべて含まれて世界である。
 我に帰った私は、また我を忘れてけいおん!を読む。3巻69ページ左側、上から3コマ目の憂の表情のただならぬところを読む。私はいつか私の見知るあらゆる世界とともにあって、またあらゆる未知をも我となりて、憂いも無憂も等しいものにしよう。人がなにか生きる目的があるとすれば、ただそのことなのだろう。