生まれたてのスリープスプリンター、ポリデントを買うのこと

※以下に軽度の睡眠時無呼吸症候群と診断された人間が歯科装具(スリープスプリント)を受領したさいのことを書きますが、内容の正確さは保証しません。いいから医者行け。

ロビー

 三時の予約。バスの本数の兼ね合いからかなり早く、二時二十分に着く。診察券を再診マシーンに入れると、ポケットベルが出てくる。ポケットベルを胸ポケットに突っ込んで、ロビーで待つ。文庫本を忘れたのでiPhoneの豊平文庫で『新しき世界の為めの新しき芸術』(大杉栄)など読む。すぐに眠りに落ちる。ストンと、深く。その深さはおそらくStage2どまりだろうが。
 三時を過ぎる。これまでの時間は「あわよくば早く」という俺のスケベごころである。ここからが本番だ。いつでも呼び出しに対応できるよう、身構える。身構えて、また眠る。三時三十分、四十分、もう四時……、ポケベルが鳴らなくて……。と、不安になったところで鳴った。中待合室に来い、とのこと。もう診察は近いのだ。

中待合室

 中待合室は診察室横に設けられた部屋で、俺のワンルームアパートの居間くらいか。先客が三人いた。若い女性三人、一人はすぐに呼ばれて出て行って、のこり二人。俺はまた眠りだかなんだかわからない、目を閉じた世界へ。
 と、この二人が大声で話す。話からすると女子大生のようだ。しかもその話の内容が、「酒を飲むと必ずゲロを吐く友だちのおもしろゲロエピソード」だの、「飲んだ帰りにゲロを我慢してタクシーに乗り、限界が近かったので千九百六十円の運賃に対して二千円を出して『釣りはいらない』って言った話」だの、「私の足は納豆と酢を混ぜたようなにおいがする」だのであって、医者の中待合室ならもうちょっと別の話題をすべきではないのか、などと思う。さらには、女子大生二人と思っていたら、母と娘だった。いやはや。
 やがてその二人も去り(お母さんは付き添いだったようだ。重病なのかもしれない)、俺ひとり残る。もう、長く目を閉じすぎて、自分が寝ているのか起きているのかもわからない。そしてまた、べつの音が俺を苦しめる。カーテンで区切られただけの向こうから聴こえてくる、歯医者のドリル音! そう、ここは歯科・口腔外科!
 キュィィィィィィン、ギャギャギャギャ、クゥン、クゥン、グゴゴゴゴゴゴ、ズゴー、ズゴー!
 なんか音がするたびに思わず眉をひそめる俺。俺は死ぬほど歯医者が嫌いなので、これは拷問だった。俺はもう歯医者に行かないで済むなら、歯を大切にしようと思ってるくらいなのだ。

診察室・1

 ようやく、診察室に呼ばれる。四時十分。前と同じ若い先生(研修医?)。「たいへんおまたせして申し訳ありません」などと言われる。いや、別に、待つのは気にならなかったです。ただ、ゲロと歯医者ドリルが、とは言えない。まあ、はっきりいって仕事も忙しくねえし、どうせ強烈な眠気で寝てるだけだから。
 と、もう用意されいた歯科装具、スリープスプリント。透明で、一見するとAmazonで買える歯ぎしり用のものに似ている。

 が、ちょっとはめてみますね、となってぜんぜん違うのに気付く。これは硬いのだ。すごく硬い。硬くて、上の歯に押し込むとき、「カッコン!」と大きな音がしたくらい。でも、上も下もはまった状態でとくに問題なし。
 「痛いところとかありませんか?」
 「ぅぁあぃぁぇん」(ありません)
 「じゃあちょっとご自分で外してみてください」
 「ぁぅぁぃ」(はい)……、「ぁぅ、あぅ」、カッコン!
 「キツイみたいですね。じゃあ、ちょっと削りましょう」
 「……!」
 手に汗ドバー、心臓バクバク、目に涙。脳波脈拍異常あり。俺もあの、キュィィィィィィン、ズゴゴーなの? マジ? 聞いてない。そうだ、俺、今日、治療のお金持って来てない、うん、いや、待って。半ばパニックの俺。
 で、先生、なんかドリルとか手に取って、俺がもう泣きながら逃げ出そうと思ったら、スリープスプリント削りはじめたよ。ああ、よかった。って、でも、なんか頭の右後で、俺の歯から型取りしたなにかが、強烈にキュィィィィィィンやられてて、あの音がすぐそこで、もうこれはきつかった。だいたい、その間俺することないし、また目をつむったりして。それで、もう一度噛みあわせて確認。ここで、「しばらくお待ちください」と。そう、あとは担当医の人が軽く問診しておしまいだろう。
 しかし、歯科と誤解などというと、この世の地獄のようだ。

診察室・2

 という見通しは甘かった。診察室放置プレイ。もう、どうしていいかわからんから、目をつぶってるしかない。幸いにして、ずっと寝ていたようなものだし、これはそれほど苦痛ではない。また、後ろから話し声など聴こえてくる。先生同士の会話のよう。「緊急入院」、「病理検査」、「オペ室の確保」、「血液内科に連絡を」などなど。うーん、やはり大きな病院、急患なども受け入れるのだろう。なんだか、「夜ねれねーからマウスピース作って」とかいう俺がいていいのかという気にもなる。ま、紹介されて来たんだから仕方ないと開き直るしかない。睡眠時無呼吸症候群は重大な合併症を引き起こすかもしれないしな!

診察室・3

 なんかいよいよかなり時間経ったな、というところ。担当医の先生が急患とかの対応とかしてんのだろうか。うーん、しかし、勝手にうろつくわけにもいかないし、待合室戻しの指示もないし、待つしかない。それで、また後ろの方から別の先生が「あの抜歯(抜糸?)の患者さんどうしたの? え、帰っちゃったの!?」とか言ってるの聴こえてきたし。
 つーか、あんまり待つの苦にならない。正直、病院おもしろい。いや、おもしろいとか言っちゃ医師にも患者にも悪いけど、俺には珍しくて。それに、やっぱり病院を舞台にしたドラマとかって多いのは、なんかこう、他人事といってはなんだけど、そういうところからは、いろいろの人間模様とか? まあ、しかし、なんだ。

診察室・4

 ようやく、人がこの部屋に戻ってきてくれた。来たのは、さっきの若い先生と、中年の男の先生だ。
 「はいどうも、枕は高い方? 低い方?」
 と、いきなり聞かれて戸惑う。言葉の意味は取れたが、なぜいきなり? というような。でも、睡眠に関係することなのだ、俺がここにいる理由は。
 「低い方です」
 「はい、倒します」
 というわけで、首の角度を寝る体勢にしてチェックの用。またスリープスプリントをはめる。それで、なにか辛いものを塗られる。なんだ? 辛いぞ。でも、歯医者でこんなの味わったことがあるような。ベテラン医師、若い医師に手捏ね(?)でどうこうなどと、なにか指示を出す。出しながら、口の中のスリープスプリントになにかする。これは見ようがない。終えると、すぐにいなくなった。

診察室・5

 若い先生が、先ほどの指示・方針通りにスリープスプリントを仕上げていく。俺は、することがなくて診察台で目を閉じてる。診察室はときおり機械の音がするほかは静かだ。「いや、さっきは歯を削られるのかとビビりましたよ」などと話しかけようか迷うが、作業の気を散らしても悪いだろう。
 というか、職人だな。職人がハンドメイドで俺のマウスピースを仕上げているわけだ。それも、かなり時間をかけて、丁寧に。今日の診察費はいくらだろうか? ひょっとしたら、かなり贅沢じゃないのか。しかし、もうこのマウスピースづくりは医師の仕事とは思えないな。けど、やっぱり人体にはめ込むものだから、医師がやらなきゃいけないのかな……。

診察室・6

 カーテンのすれる音がして、人が入ってくる。こないだの女の先生だ。作業中の職人に話しかけて、あれこれ言葉を交わす。名詞が理解できない。で、こちらに来るとA4のペラを見せてくれて、スリープスプリントの扱いなどについて説明。曰く、材質は入れ歯と同じ。曰く、洗ったあとティッシュとかに包んでおくと、家族に捨てられる……って、ありそうだな、それ。まあ、俺一人暮らしだけど、自分で捨てそうだし。そのあたり、なにか学会とかで事例の研究とかしてんだろうな。お手入れは歯を磨くのと一緒に歯ブラシで。たまに入れ歯用洗浄剤を使ってください、と。え、ポリデント買うの、俺?
 でもって、最初のうちは違和感があって眠りにくいであろうことを説明してくれるんだけど、まあしかし、俺思うに俺はたぶんマウスピースつけてる方が違和感ないんだ。アホみたいに悪い噛み合せ、そっちが不具合なんだ。

 「今は、上下をくっつけて固まるのを待っているところです。申し訳ありませんが、しばらくお待ちください」
 え、くっつける?

診察室・7

 はい、そういうわけで、上下一体仕様が完成形でしたwithポリデント。って、歯ぎしり防止のあれもこうだったか。最初見たときは単に透明だったけど、接着剤か補強材か微調整用か、濁った部分がある。前歯の中央には空気穴。しかし、俺の歯並びはひどい……。だから時間がかかったのか? 申し訳ない。
 まず上の歯カコンとはめて、次は下の歯を……って、これ、あの中年の先生の段階でやってたような気も。あれ? わかんねーや。もういい。記憶が混濁してる。つーか、ずっと半分眠っていたような。
 それで、様子をみるので二週間後くらいに診察に来て下さい、と。予約は午前・午後どっちがいいですか? と聞かれる。で、ぼんやりと答えられず、「ご……ごぜ、ご」とか言ってしまい、「ええと、どっちでも早いのなら」と口走ってしまう。それで先生、「今日はおまたせして」などと恐縮されるのだから恐縮です。結局、二週間後の朝一に予約入れておしまい、お疲れ様でした。

精算

 診察室の外に出ると、もうベンチで待つ人はいなかった。通路には、一般ゴミの袋がまとめられている。精算窓口も半分以上しまっていた。五時半。正直、ながかった。待つこと自体はそれほど苦痛でもなかったが、後から体の疲れを感じる。短気な団塊の世代などのオッサンだったら、騒ぎ出すくらいかもしれない。まあ、そんなことはどうでもいい。お代は六千円くらい。上大岡で「一万五千円くらい」と言われたのは、製作費でなくて、三回の診察全部ということか。

ポリデント

 して、ポリデントは会社帰りにドラッグストアで買った。正直、入れ歯洗浄剤を選んでいる俺は楽しかった。なんか、いろいろあるんだぜ、総入れ歯用、部分入れ歯用、ポリデントポリデントっぽいの、酵素入り、臭い防止用……。俺が選んだのは酵素入り。べつに毎日これで洗う必要はない(つけてなんか食うわけではないし、つーか、食えないし)らしいけどさ。
 あー、そういうわけで、とりあえず俺はスリープスプリンターになって、三十一歳にしてポリデントを買ったと。いや、当たりの強いスポーツや格闘技、あるいは事故や病気で入れ歯の人もいるか。まあいいや。それじゃ、バハハーイ。

入れ歯洗浄剤 酵素入り ポリデント 108錠

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  • 発売日: 1997/03/04
  • メディア: ヘルスケア&ケア用品