「電話でセックス」〜予知されていたネット社会、性・コミュニケーション・人間の未来〜

 大船の古本屋で1970年前後の「SFマガジン」が投げ売りされていた。言わずと知れたプレコグ(未来予知者)による科学論文誌だ。ぼくは科学に興味はあるけれども、ちょっと苦手にしているので読んだことがなかった。でも、せっかくの機会だし、入門のため二冊買うことにしたんだ。何冊もある中から選んだのは、やっぱり有名なプレコグ、ディック、スタージョン、ニーヴンの名前が表紙に載っていたやつなんだ。


 そんな中で、石原藤夫というプレコグの論文、「電話でセックス」というのが気になった。前の持ち主も赤鉛筆で猛烈プッシュしているし、タイトルがタイトルなので、まっさきに読んでみようって気になるよね。
 それで、一読三嘆、びっくりしちゃったな。同じ号のP・K・ディックの「水蜘蛛計画」は、まさにプレコグ自体についての優れた論考で、ポール・アンダースンが未来を訪れるという内容なんだけど、この石原氏もれっきとしたプレコグなんだよね。そこには、このインターネットのこともTwitterのことも予知されていたんだ。

全世界テレビ電話網

 「電話でセックス」の舞台は、少なくとも二十一世紀以後。セックスは夫婦や恋人のものでもなく、フリーセックスですらなく、‘エチケット・セックス’になった時代。だいたい現代における「一杯付き合う」程度のものみたい。人付き合いの苦手な科学者があんまり好んでないところとかね。それで、その時代で、主人公のドクター・ナカハラは表題の「電話でセックス」を研究開発するんだ。システム工学(システムエンジニアリング)をやらなきゃいけなくなったからだって。

 かつてのシステム工学は、月世界航路や全世界テレビ電話網などの、グローバルなまたは宇宙的スケールのシステムの樹立のために研究され、その価値判断の基準は、
  有用性  経済性
  信頼性  適合性
などにおかれていた。しかし、この時代のシステム工学においては、これらの他に、
  無用性  浪費性
  不信性  不適性
なども価値を定めるものさしとされていた。

 ってね。まあ、ぼくもシステム工学がなんだかわかんないんだけど、日々ぼくが接続している「全世界テレビ電話網」のことを考えると、後者のものさしってものがみえてくるんじゃないかな。ほら、今、これを読んでるあなた、あなただって今まさに無用な浪費をしているでしょ?
 まあ、それはともかく、セックス電話の開発は成功するんだな。仕組みは単純で、男性向け、女性向け端末があって、それぞれの動きは電気信号に変換されて、ネット経由で……って、今、このぼくらの住む2010年でも充分に可能だよね。それどころか、主人公の台詞でこんなふうに語られてる。

「ぼくらのやった“社交セックス電話”®の研究は、たしかに新しいものだったが、純技術的見地からこれを眺めてみると、現代の水準でなければできないほど難しいというものでは決してない。原理的には、なにも新しいことはないので、たとえば二十世紀中葉の科学技術だって、充分にこなせたはずのものなんだ。あの時代の大企業や国家機関の研究開発力はかなりのものがあったから、その気にさえなったら、数年の研究で、できたんじゃないだろうか? それなのに、なぜやらなかったのだろう?」

 ってね。まあ、でも、この現代のセックス観みたいなものを考えると、大企業や国家機関はやれないよね。この予知論文では、1969年くらいの、「スウェーデンでは〜」的な? フリーセックス観が推し進められた先の検討なんだけど、技術に比べたら、そっちの方は遅れてるのかもしれないな。それでも、今の「全世界テレビ電話網」なら、小さな企業でも通信のインフラを利用出来るんだし、明日に実用化されたっておかしくない。たしか、試作みたいなものはもうされているはずだったと思う。

Twitter

 話を戻すと、“社交セックス電話”®について、今現在のぼくらが想定するのは、やっぱり社交程度のものなんじゃないのかな。あるいは、軽く一杯飲む、ていどのコミュニケーション。そうすると、このプレコグの予知もぐっと身近にたぐりよせられると思う。
 で、電話として遠くはなれていてもセックスができるようになった次に流行るのは何か? それは、「誤接続サービス」だというんだ。

 日本からフランスのCさんにかけたセックス電話が、電話局の機械のちょっとしたミスで、インドのDさんにかかったことがあった。局側ではあわててあやまったが、発信者もDさんも、むしろ喜んでいた。まったく見ず知らずのふたりが、偶然にもセックスによって友情をわかちあうようになったからだ。この事件があってから、誤接続に人気が集中するようになった。

 これなんてどうだろう、間違いメールからはじまった友情かな? そして、これは“誤接続サービス”として公式にはじまって人気になる。そして、次の段階が現れる。

 この“誤接続サービス”とならんで、ナカハラがはじめから主張していた“混信サービス”―つまり第三者のセックス信号をわざと混入するサービス―もさかんとなった。
 任意不特定の相手とエチケット・セックスによって社交し、同時に、多数の他の人々のセックスを吸収することによって、人類はみな友だち―という幸福な一体感を味わうことのできる、これらのサービスは、世界中の政治家や思想家や市民の大歓迎するところとなり、人類の平和に役立つこと、まことに大なるものであった。

 どうだいこれ、これはまさにtwitterのことを予見しているとは言えないかな。ぼくにはそうとしか思えない。副産物として“セックス・ブロードキャスティング”が誕生するなんて書いてあって、それがテレビ放送業界の巻き返しだ、という予知まである。これはUstreamのことだろう。まったく興奮するよね。ともかく、近い未来には、日本の首相とアメリカ大統領とソ連の書記長がそれぞれにフォローしあって、難しい問題も「解決なう」ってなるに違いないんだ。わくわくする。

性の未来

 さて、この先については、少々というか、たぶんセックスそのものの予見になっていくと思う。次に現れるのは、同性間セックスだというんだ。それは、電気信号が反転する一種のミスから生まれた技術によるものなんだって。

 もうくどくどと説明する必要はないであろう。この現象を活用することによって、同性どうしのエチケット・セックスをスムーズにはこぶ新しい“社交セックス電話”ができる可能性があったからである。

 同性間のセックスは太古から存在していたが、それらは愛欲的なものであって、エチケット的なものでなかったかので、参考にはならなかった。そして、同性間セックスをいかにうまくやっていくかは、常に人々の悩みの種だったのである。
 それが、電子信号の力によって解決されるとしたら、こんなにすばらしいことはないではないか!


 これについては、どう解釈すればいいんだろう? いろいろな考え方があると思う。現状からいえば、ネカマのような存在もありえるだろう。あるいは、これは人間間コミュニケーションから外れるかもしれないけれど、いわゆる“男の娘”的な存在? よくわからないけど、ぼくはだんだん性別みたいなものが曖昧になっていくように思う。男性と自認するもの、女性と自認するもの、どちらでもあると自認するもの、どちらでもないと自認するもの、性的あるもの、性的でないもの、なにもかももっと自由に。少なくとも、電子信号の上では自由になれるかもしれない。
 じゃあ、肉体は? となるとこれはまだいろいろ問題があるかもしれない。しかし、また偉大なるプレコグ、士郎正宗が『攻殻機動隊』なんかで論じていたように、電子上でのアバターとしての性に加え、高度な義体化という可能性も残されている。しょせん、人間の自覚だの自認だのは、脳内の電気信号にすぎないのだから、いっそのことこの不完全な血肉の塊より、電気信号の自由になるハードウェアをえることで、より人間が人間らしくなるのかもしれない、とかね。
 もっとも、その電気信号はどこかから勝手に湧いたわけではなく、血肉を有するこの身体とかいうスーパーシステムが作り出しているものだし、自己と他者を分かつものは免疫系だなどというと、また話はややこしくなるだろうし、そのあたりは科学者の声とともに優秀なプレコグたちの、技術にとどまらない社会や世界、その認識のありようの予見に、真摯に向き合っていく必要があると思うな。

セルフ・セックス

 さて、「電話でセックス」の最後に予見されているのはなんだろう。それは、“セルフ・セックス”だ。これも、電子信号の逆流というトラブルから発見された代物だ。すなわち、「自分自身の発するセックス信号を異性化した信号とセックスすることになってしまった」ということなんだ。ドクター・ナカハラにしてみれば、マスターベーションの技術的極限であり、オナニズムの科学的末裔である」ってことで、あまり情熱のわかない仕事になってしまった。

……この“電子的セルフ・セックス装置”の研究が、SE的にみて、発展的であり、SEを多元的に捕えた結果であるとは、とうてい思えなかったのである。
 この装置が普及したあかつきには、おそらく、社交のエチケットとしてのセックスは、その意味を失っていくにちがいない。人々のすべてが、自分と挨拶する自己閉鎖的なセックスにはげむ社会には、セックスを介しての社交はありえない。そして、そのようなセルフ・セックス自体、はたして長つづきするものだろうか?
 生殖・欲望・愛欲・刺激・遊び・社交……と、つぎつぎにその意味を見失ってきたセックスが、科学的セルフ・セックスによってながく命脈を保つとは、とても思えない……。

 そして、この先どうなるかについては、わからないまま「電話でセックス」は終わってしまう。これを、どう解釈すべきか。ぼくには正しい答えを見出すことは無理だ。ただ、しかし、これがコミュニケーションの意味においても、性的な意味においても、単に自慰行為への退行として片付けていいものとも思えない。つまり、ひとつの可能性としては、「閉鎖的なセルフ・セックスは長続きせず、また社交的なセックス、あるいは愛欲・生殖のセックスへの回帰」もあるが、もう一方で、その自己閉鎖的なセックスの先にも可能性があると、そんな風に思うのだ。
 それでは、自己閉鎖的なコミュニケーションとはなんだろう? たとえば、ぼくが文字を打ってぼくが答える、そんな世界だろうか。

瑞巌(ずいがん)和尚、毎日自ら主人公と喚(よ)び、復(ま)た自ら応諾(おうだく)す。及ち云く「惺惺着(せいせいじゃく)や、喏(だく)。他時異日、人の瞞(まん)を受くること莫れ、喏喏(だくだく)」

禅語「主人公」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト

 そうだとすれば、それは悪くない。むしろいいんじゃないのか。科学者であり技術者であるドクター・ナカハラにはよくないのかもしれないが、それは悪くない。なぜならば、やはりこの血肉も脳の電気信号もそのままにして宇宙なのであって、内へ内へダイブすることは、それと同時にすべての宇宙に飛翔することでもあるからだ。天体による永遠のすべてだ。

人間生活の終末は、すべての人工組織から開放せられて、自らの組織の中に起居する時節でなくてはならぬ。つまりは、客観的制約からぬけ出て、主観的自然法爾の世界に入るときが、人間存在の終末である。それはいつ来るかわからぬ。来ても来なくてもよい。ひたすらその方面へ進むだけでたくさんだ。
「現代世界と禅の精神」鈴木大拙

 まったく、たくさんだ。結局、ぼくにもわかっているのは、やっぱりそこには行けないということなんだ。いろいろの恐怖とクソにまみれて、ちょっぴり楽しいこともあるかもしれないが、しょせんはたったこれだけの肉の塊、決まりきった人間の決まりきった時間の中で、たまに妄想で心を飛ばしたり、「おい」と問うて「はい」と答える、そんなときがあるって、そんなふうに思うだけだ。ぼくがいるのは、今ここだけなのだし、そう、まったくこのたわごとにも書き疲れて、すっかり飽きてしまった。なにか結論っぽいことを書こうとして間が開いたら最後、もう俺の関心はどこか遠くに行ってしまったし、帰ってこないみたい。まったく、しょうがない。ここはもう留守なんだ、とっとと帰ってくれ。無用性 浪費性 不信性 不適性 いい言葉じゃないか、まったく。

◆関連