『高校生からのゲーム理論』を読んだのだけれど

高校生からのゲーム理論 (ちくまプリマー新書)

高校生からのゲーム理論 (ちくまプリマー新書)

 おれだっていつも東スポばかり読んでいるわけでもなく、新書を買って読むこともある。しかも古本ではない。『高校生からのゲーム理論』だ。おれは高卒なので「高校生から」に入るのかどうかと14秒くらい悩んだけど、たぶん大丈夫だと思った。

 どんな本だとかそういうのは上記リンク先様を参照されたい。

 というわけで、しょうもないおれの感想なんだけれども、なんというのだろうか、まあこの世はこのようなものの見方で解釈できたり、予測できたり、ときには最適な解答を提出ことができるんだろうな、と。
 まあ要するにどうだろう、たとえば野球のセイバーメトリクスがすげえ面白いと思っても、おれにはデータ解析の術はないし、競馬のコースごとに走る馬の血統による偏りがあるとわかっても、おれには分析の術はないし、というような。おそらくゲーム理論とやら、この啓蒙入門書の一歩先は高等数学みてえなやつだろ? と。おれは算数でつまずいてんだ、ふざけんな、と。
 でも、なんだ「囚人のジレンマ」だのなんとか均衡だのとかを文系的な、物語的な、そんなあたりで理解してビジネスに、みてえなそういうのもあるだろうし(ビジネス雑誌が三国志とか戦国時代好きなテイストで)、この入口のところでいきなり算数出てこないところはいいよな。この本の例も、天下三分の計だとか、韓信だとか、2006年のアルゼンチン対ドイツのPKだったりとかな。ドイツはアルゼンチンの選手がどっちに蹴る傾向にあるか把握してたんだってよ。まあ、PKの蹴る方向、この読み合いのところにな、と。ガソリン価格の話はおもしろかったかな。
 でもまあ、だいたい世の中の人間それほど頭よくないし、処世訓とか教訓的とか、そんなんでもいいんじゃねえの。べつにレーマンもいちいち計算してたわけじゃないだろうし、こっちたくさん蹴るから、こっち飛べ、みたいなもんだろうし。
wikipedia:イェンス・レーマン

2006年ドイツW杯の準々決勝アルゼンチン戦で、PK戦にGKコーチのアンドレアス・ケプケが書いたアルゼンチン選手のシュートをする時の癖が書いてあったメモをストッキングの中に隠しており、キッカーが変わるたびに参照していた。後に、このメモは1億5000万円の値がついた。

 もちろん、アルヘン側が「傾向を読まれているな」と気づいたところからのなんかもあるだろうし、その上でもなんかランダムよりマシななにかはあるんだろうし。
 しかし、そうなると、遠藤保仁の「キーパーが動いたあとに蹴る」ってのはチートだな。ルール破りだな。いや、ルール破ってないけど、ルール破り。で、たぶん現実社会は、そのあたりの、ルール破りや新規ルール作成みたいな新しいゲーム展開みたいなところが延々と積み重なってくんだろう。たとえば将棋指してていきなり相手の頭をうな重でぶん殴ってぶっ殺して、相手の時間切れで勝つ、みたいな戦術とか考えたとき、それが利得になんのですか、というようなところも、また新しいゲームなんだろうし、それを解析することになるんだろう。ならねえか。

 今、仮に、白人はだれも黒人に偏見を持っていないとしよう。かれらが気にするのは、自分が住む街や所有している不動産ないし不動産屋なら自分が扱う街の地価の動向だけである、と考えよう。そのような状況でも、黒人に家を貸したり、売ったりすることを避けようとすることがあり得る。なぜかと言えば、それは、みんなが「黒人が住むと、地価が下がる」と思っているからである。

 はてな風にいえば、差別のアウトソーシング?的な話だろか。自分は悪いこととは思わないけど、的なところに通じるような。

 差異は仲間外れの理由として用いられるが、そこに論理的必然性や因果関係はない。知的障害児が仲間外れやいじめに遭ったという話を聞く。ここまでの議論(※引用者注:本買って読め)を踏まえれば、知的障害が「原因」で、仲間外れやいじめが「結果」であると結論づけることが、いかにぼくたちの誤ったものの見方に基づいたものでるかがわかるであろう。これを因果関係だと思わせているのは、ぼくたちの経験とその経験を安易に解釈しようとする営みのなせる業なのである。

 まったく、御説ごもっとも。もちろん、そんな構造みてえなのが見えたからって、その解決が難しいのは言うまでもないだろう。いじめられっ子や被差別人種がこれを知ったからってどうだっていうんだといえば、知らないよりマシだろうし。
 ……うーん。

 で、おれはやっぱりここで気になるのは、馬鹿でハートのない人間、たとえばおれみたいなやつのことだ。おれはあんまり頭もよくないし、度胸もないから、たとえば、明日の食事に困るかもしれないという局面で(来月そうなってる可能性があるので、「たとえば」じゃねえかもしれないが)、頭の良いやつに「今おまえの抱え込んでいる食料を飢えたこどもに分けてやったほうが、おまえのためにもなるし、社会のためになる」とか言われても、そんなん怖くて信じられるかよ、みてえな。「理論では明らかなのに」とか「おまえに優しさはないのか」とか言われても、知るか、というような。
 いや、べつにあらゆる他人の言葉や社会のシステム、制度、税金、なにもかも疑って生きてるわけじゃねえし、生きられるわけもない。でも、極限のところとか、極限じゃないところとか、おまえ、そんなに賢くふるまえるかよ、みたいな。
 あー、でもね、なんだろう、人がますます賢く(以下武者小路実篤モード略)が悪いこととは思わないし、やっぱりマシになってそれなりに(以下略)というのには肯定的なんだよ。でも、どっかのラインで必ず立ちふさがるであろう無知蒙昧を前にして、それどうすんの、みたいな。やさしいラーゲリに送っておく? それとも、そういう無知蒙昧をもそのままに救えるありようがあり得る? 各人が自然の中で安心できるありようが。

人々は鋭い透視力を有するようになり、すべての人間の欠陥と特徴の一つ一つをまるで金魚鉢のなかのもののように数えることができるようになるだろう。ああ! 人は嘲笑や罵声を浴びながら、常に正直な道を歩まねばならないであろう。しかし一方、寛大が人々の心の基盤となるだろう。なぜなら科学の絶対的命令により、恣意は姿を消すだろうから。犯罪はといえば、これは資本およびその父であり母である宗教とともに消滅してしまう。

 敬愛するブランキはこう言うし、クロポトキンも似たようなこと言ってたけど、そこまで単純な科学の純粋は信じられない……。
 まあ、進歩や人類の進歩に肯定的と言いながら、こんな起こっていもしないことに思いをめぐらして悲観しているのは、その実、それを望んでいない敗北主義に堕しているとか言われたらそうかもしらんし、内なる反革命自己批判する必要があるかもしらん。ただ、おれはばかだからそこが気になるし、おれはそんなに特別な人間でもないので、世の中にはおれのようなやつもまだまだいるだろう。それを前にして、またゲームが始まるのだろうし、まあしっかり解析して、お互い悪くない方に行けそうな感じにしておいてくれ。
 それじゃ俺は俺のゲーム、どんなにゲームの木を植えてみても「参入せず」が一番金銭的な利得が高くなるであろう、明日の日本海ステークスの予想に戻るから、おしまい。
 
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