バルブ・フィクション

カメラの入門本を買った - 関内関外日記(跡地)

写真は本当に好きなものを撮らない限り、絶対にうまくならない。みんなも撮るから、私も撮ろうではないんだ。本当に花が好きですか? 本当に風景写真が好きですか? もし、写真を撮らなくなっても、それでも見に行きたいですか?
デジタル一眼 そうじゃない、こうなの!』より

 俺は花も風景も好きだし、競馬場も好きだ。そのあたりに嘘はないように思う。「それでも見に行く」ことだろう。ただ、本当に撮りたいのは、実際のところ人物というか女の人なのかもしれないけれども、それはまたべつの話。
 ただ、「写真を撮らないのであればあんまり興味がない」というものもあって、それは夜景だ。夜景というか、夜の風景だ。

 もっとずっと昔、使い捨てカメラや簡単なインスタントカメラを渡されたときも、撮りたかったのは夜景だった。まあ、ちゃんとした三脚や設定がなければ写るものではなかったから、どうしようもなかったが。

 肉眼で見る夜景もすばらしいだろう。ただ、やはり俺は写真に写った夜景が好きだ。ものすごくキラキラ光ってる。俺はキラキラ光ってるものはたいてい好きだ。こんなに光っている風景を、俺は肉眼では見られないと思う。
 シャッターを開き続けて写るもの。肉眼で見えるものとは違うが、実際のもの。時間の切り取り方が違うもの。べつに「写真」の漢字二文字にこだわる理由もないが、これもまた「真」だろうし、そこのところの差が面白い。人間の目だけが世界を見られるわけではないだろう。作り物かそうでないのか、その「きわ」がいい。
 しかし、それにしてもカメラというのは、写真というのは不自由なものだ。紙に鉛筆、自由に線が引けるし、言葉なんてものはもっと、なんだって、どうにでもなる。むろん、言うまでもなく、それぞれにものすごい制約や前提や限界はある。とはいえ、場合によっては被写体も自由にならず(今朝も鳩が交尾してる瞬間を撮ろうとしたが、カバンからカメラを取り出すのが間に合わなかった。鳩に「もう一回やってくれ」と言っても豆鉄砲だろう)、ピントや露出が狂っていたらなにが写ってるかもわからず、ともかくたいへんだ。だが、そのおかげで偶然の一発みたいなのもあるかもしれない。もちろん、技術のある人はまた別の写真世界があるのだろうが、俺は偶然がいい。それはちょっと楽しい。
 偶然が好きなら、フィルムカメラでやれ、ということになるか。だが、そんな時間も金もない。その場で確認できるデジタルカメラはありがたい。そんなわけで、俺は夜景を撮る。一脚も三脚もレリーズもリモコンもなしに、どっかに置いて、息を止めてシャッター切る。