2025年8月15日、大井競馬場、真夏のものまねオンステージ


 古い話をする。2025年8月15日のことだ。俺は大井競馬場にいた。蒸し暑いナイター開催。まぬけ面をひっさげて到着するや、1レースから打ちはじめた。時計が午後6時を回る頃には、俺はもうすっかりうんざりして、旧スタンドのプラスチックのベンチでぐったりしてた。馬も騎手も、なにもかも俺に意に反して動いた。まったくべつの世界の何かを覗き見してるような気さえした。的場や宮浦、内田、桑島がいたころは、こんなことはなかったんだ。
 くそったれ、喉の渇きに俺は無料給湯サービスに向かった。こればかりは昔となにも変わらない。ボタンを押すと紙コップが出る、ボタンを押すと飲み水が出る。なにが溶けこんでるかはしらない。俺は二杯冷や水を飲むと、三杯目は熱い緑茶にした。くそ暑い中、熱い飲み物を飲む。それがなんだ、知った話ではない。俺は尻のポケットに折りたたんだダービーニュースを押し込んで、人のまばらな場内を歩きはじめた。まったくまばらだった。金曜の夜なのに、本当に寂しいもんだ。もう誰も競馬なんてやらなくなった。会社帰りのサラリーマンもいなくなったし、ほんとうに競馬だけやりにくやつもいなくなってしまった。
 ステージの方からひび割れた音楽が聞こえてきた。なにかのショーをやっている。呆けた面をした年寄りが、ぼんやり見つめている。俺はその輪に加わった。出し物はものまねタレント・オンステージだった。ちょうど神奈月武藤敬司のネタをやっているところだった。まったく、武藤敬司だった。俺はもう、武藤がどうだったとか、すっかり忘れていたが、多分そうなのだろう。気づくと、神奈月は一礼して、次の演者にマイクを譲った。
 出てきたのは、ミラクルひかるだった。ミラクルひかるは、かつての宇多田ヒカルそっくりに軽く挨拶すると(俺は宇多田ヒカルの挨拶を見たことはないのだが)、さっそく歌い始めた。曲は「Automatic」だった。昔、オートマチックという名前の馬がいたような気がする。俺は深い深い追憶の中に沈み込んでいった……。
 が、そうはならなかったのだ。俺は完全に、目の前の、ミラクルひかるのショーに、いや、歌に心を奪われていた。「traveling」、「SAKURAドロップス」、「LETTERS」。「Passion」、「Be My Last」……。どれもこれも圧倒的だった。ミラクルひかるの歌は、俺の追憶や感傷をすべて撃ち抜き、無茶苦茶にしながら、それでも力強く、せつなく、やむことを知らなかった。俺は人間の歌が、このようなものだとはじめて知った。これが人間の歌、音楽というものなのかと思った。ステージの周りには、気がつくと俺のように魂をどうかしたおっさんや年寄りが集まっていた。「HEART STATION」、「FINAL DISTANCE」、「光」……。
 気がつくと、ステージの光は落ちていた。しばらくの間、誰もがその場を動けなかった。それでもまたしばらくすると、それぞれの競馬新聞を手に、それぞれの居場所に戻っていった。木陰のベンチ、忘れ去られた休憩所のソファ。俺も場違いな涙をぬぐい去り、俺の旧スタンドの方に向かってずったらずったら歩き始めた。馬券を買い、馬は走る。馬券は外れ、また馬がパドックを周り、俺は馬券を買う。メーンレースで取り返し、最終に賭ける。閉門の場内放送が流れ、俺はまったくうんざりする。ただそれだけのことだった。
 それからしばらくして、宇多田ヒカルが現役に復帰したという話を聞いた。どこか昔のオーラを失っているという話だった。「あれは宇多田ではなく、ミラクルひかるではないのか」などと言う者もいた。
 そして俺はまた想像する。本物のミラクルひかるが、今もどこかの競馬場や遊園地、温泉ホテルのショーで歌いつづけている、その姿を。


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