若松孝二監督『キャタピラー』を観るのこと

シネマ・ジャック&ベティ


 8月15日、シネマ・ジャック&ベティにて鑑賞。とくに終戦の日を選んだというわけではなかったのだけれども、せっかく近くでやるのだから早く観ようという思いはあって、だったら舞台挨拶のある初日を狙ってみてもよかったのかもしれないけれども、なぜか金曜日と勘違いしていて土曜日はどこかに出かけてしまったというわけなのだけれども。
 シネマ・ジャック&ベティに行くのははじめてで、横浜ニューテアトルが自分のテリトリーのど真ん中にあったことに気づいたことかから、イセザキモールのそこらへんかと思っていたのだけれども、モールの先の先のピアゴよりも向こうだったから、余裕をもって出たはずだったのに、ぎりぎりに到着してしまったという具合。
 劇場前には数組のお客さんが煙草をふかしていたりしていて、チケットはどこで買うのかと思うと、目の前にあるチケット売り場にはなにかモニタがあって予告編などながしていて、それでもならんでいる感じの人がいるものだから、ここが開くのかとしばらく待ってみたけれども、まったく事態が進展しないから階段を登ってみると、その奥でふつうにチケットのカウンターがあったのだけれども。
 整理番号は88番か89番か、10番区切りで入場案内もはじまっていたところで、シアターに入ってみればたくさんのお客さんがいて、こんなにお客さんの詰まっている劇場というのはいつ以来かと思うほど映画館で映画を観ていないのだけれども。
 上映が始まるまで私は1,000円で買ったパンフレットをめくっていたりして、なるほど1,000円とは思えない内容の充実があって、これは損のない買い物をしたと思ったりしていた。後ろの席の老夫婦らしき人たちの会話が聞こえてきて「お客さんいっぱい入ってるけど、若い人はいないね」というような会話だったのだけれども、たしかに中高年と言われるような人たちが大多数だったのだけれども、なかにはいくらか私のような年齢、三十代くらいでアイフォーンとか持ってそうな人間や人間のカップルなどもいたわけだけれども、その中間層となるとあまり見かけなかったという気はする。とはいえこのお盆の時期ともなると帰省やなにかもありますでしょうし、自分の見かけた範囲からはなにもわからないようにも思った。

 

キャタピラー

 さて、『キャタピラー』なのだけれども、なんといっていいのかわからないけれども、見終えたときの感想は、「うーん?」というところだったのが正直なところ。ようするに、エンディングで急に元ちとせの歌うヒロシマの歌が流れてきて、「あれ?」と思ってしまうところがあって、それはもちろん、国家による戦争というラインで一気通貫しているのはたしかであって、映画のはじまりから途中途中差し込まれる情報からも、舞台となる村や人物たちともっと大きなものの繋がりであるとか、あるいは天皇の国家であるところとか、そういったところはとても意図的で直球のメッセージだったのだけれども。
 そう、私はそれでもやはりここはすべて寺島しのぶに持っていかれたような気になっていて、寺島しのぶにはぶちのめされたような気になったのだった。どういっていいかわからないけれども、一言で「彼女はこのときこう思っていました」といいかねるような、そんな人間の生、この生は(せい)と読んでも(なま)と読んでもいいのだけれども、それがそのままうつっているようで、こわいようにも思い、また面白いようにも、悲しいようにも、私もまったくの「どう思っていました」と言えないような状態になってしまったというわけなのだけれども。たとえば、大西滝次郎ではなく大西信満がいちばん激しくのたうちまわるあのシーンで、笑い出すでしょう、あのあたりというのはもう一種の究極のところというと大仰だけれども、なんというかそんなところまで行ってしまっているように思えた。
 しかし、ともかくそこらへん歩いているおっさんやおばさんや俺やあなたというのも、だいたいそれぞれにまったく意味不明な絡まりや矛盾の中にあって、心とかいうものをひもといてみても、竹中直人の笑いながら怒っている人どころのさわぎではないというのがまったくこの血肉袋のありようのように思えるのだし、そこのところが意図や説明やストーリーがあって、役どころが割り振られているような、なんというのだろう、RAWデータから出力用の画像形式にサイズに吐き出されたあとのような、そんな映画というものの中にあって、それがむき出しで、生であってどうしようかという、その強度というものにやられてしまったというわけなのだけれども。
 そんなわけで話ははじめの終わりに戻るのだけれども、寺島に持って行かれたところで、歴史的な流れのイメージで終えられてしまうところに上滑りのようななにかを感じてしまったというところだと思う。というか、このような演出であるとか、あるいはパンフレットの内容とかから感じられるのは、若い人、この三十路のようなおっさんよりもさらに若い人に戦争のことを伝えなきゃいけねえんだという強いメッセージみたいなものであって、それはやはりたいへんに強く、はっきりと、言っとかなきゃいけねえっていうようなものであって、もちろん半可通ほどの知識があるかどうかの私にとっても決して不要のものではないのではないかとも思えるのだけれども。
 

アフター・ザ・キャタピラー


 劇場から出てもまだ明るく、私は空腹だった。どこかで銀シャリをむさぼろうとイセザキモールにもどり、杜記海鮮火鍋菜館で遅いランチなどたべるとZさんのようかと思ったのだけれども、うっかり通り過ぎてチェーン店のとんかつ屋でロースカツ定食を食べたのだった。チェーン店のとんかつ屋の店員は中国人風の人とどこかよくわからないアジア風の人で、この人たちが勝手に母国風にアレンジしてしまえば面白いのにと思ったが、そのようなものが食べたければそれを標榜している店に行くべきなのだろうと思う。
 しかし、若松孝二監督の女性の側に立つ、とパッキリ立場的なものを簡単に書いてしまっていいものかわからないし、当の女性の話を聞いていないのでわからないのだけれども、ただ「当の女性」というものがこの世のどこにいるのかわからないなどと言い出すのも後退しすぎかしらなどというのはとりあえず置いておくとして、たとえば『情事の履歴書』とかでも、そのあたりの視点というのはたしかにあったように思える。そういう意味で、たとえばこの『キャタピラー』で寺島しのぶが置かれた立場というのは、軍神の妻という特殊性はあるにしても、どこかの家に嫁に入り、夫がこういうことになってしまっても、もう一家の労働力、悪く言えば奴隷なのだから逃げられないというようなケースというのは今まさにあることであるだろうし、あるいは夫の世話どころか、義父と義母の世話にすべてを捧げるような話というのはまったくある話であって、あるいはそのような立場の人がこの映画を観れば、大日本帝国の戦争というよりもそこに主眼が置かれるのだろうし、それこそが日本であり、昭和史であり、戦争だという面もあるだろう。
 そのあと、ふだんはえらく行列のできているチェーンの割安カットの店に行き髪を切ってもらった。それほど長くはないが、夏なので短めにしようというようなところもあるのだけれども、ワールドカップのときに本田圭佑に影響されてかなり金色気味にしたあたりがだんだんプリン気味になってきていて、色の方も考えなければいけないところなのだけれども。
 あるいは、男が女にぶつけようとする性の要求というかなぁ……。
 最後にチェーン店でない時計屋で、時計の電池交換を頼んだ。2007年に再発見した15年前くらいに父から買ってもらった時計で、ついこないだ止まっているのに気づいたのだった。ひっくりかえして裏を見て、2千いくらか、あるいは3千いくらかかかると言われて、そんなにかかるのだっけなどと思ったけれども、なにかとても詳しそうな感じだったし、そこで引き返すのもなんだと思ってお願いした。15分くらい有隣堂で時間を潰して、店に戻ると、作業は終わっていた。なにかがやはりどうにかなっていたようだが、よくしてくれたような感じだったし、よくわからないが時計の中に電池交換日の情報を入れておいたので、なにかあったら来て下さいとのことであって、なにやらよくなったように思った。なにかしら、なにやらよくなるのはけっしてわるいことではないのだろうと私は思う。
 それにしてもたとえば、私がこの国でいちばんの年寄りになったとして、いや、いちばんの年寄りじゃなくてもいいけれども、私の世代がだいたいなにかを語れるいちばんの年寄り世代になったとき、たとえば今現在当事者たちがうけおっている「戦争を語る」ことを引きうけられるのだろうかと考えると、途方もないように思える。少なくとも戦争の時代を生きた人間から直接話を聞けた世代、というあたりが頼りになるだろうか。いや、「戦争が終わって 僕らは生まれた」人たちが、もうすぐその位置につくのだし、そこでなにかが変わってしまうのだろうか、よかったり、わるかったり、あるいはわるかったり、よかったり。

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寺島しのぶなど

■戦争語り