『借りぐらしのアリエッティ』〜俺これ好きだ! すばらしい小さい世界!〜

 8月15日、109シネマズMM横浜、レイトショーにて。
 俺は『アリエッティ』について、かつてこんなことを書いた。写真ごと再掲する。その下にはネタバレ世界広がってますので。


 しかしまあ、俺も、けっこう花とか好きだよね。

 花とゆめの男だよ。

 間違いないね。

 植物はいい。

 自然種のものだろうと園芸品種だろうと。

 野生のものだろうと仕立てられたものだろうと。

 そんな気分なのです。
 で、なんというのか、俺はガーデニングとか造園とかよくわかんないんだけど、まあ、この日この庭を見ていて思ったのは、なんかミニチュア感みてえな。

 こう、ちっちゃくなった、小人になった俺が草の中に。

 そんな目の高さを思い浮かべて。

 あっちへ行ったり。

 こっちへ行ったり。

 花とか咲いていたり。

 そんな目の高さだったりして。『借りぐらしのアリエッティ』にそんな場面があればいいなとか思ったり。

すべての小さくすばらしい世界

 『アリエッティ』はそんな場面に満ち溢れていたのですばらしい。「あれ、花の時期がおかしくないですか?」というような些事にはこだわらない。小人のいる世界でツツジがいつ咲こうとかまわない。ちょっとかまってほしかったような気もするが、まあよろしい。ただ、べつにセミを鳴かせる必要はなかったんじゃねえのかと思う。
 いいんだ、俺は『アリエッティ』を激賞するんだ、これから。そうだ、俺は、アリエッティをとりかこむ世界に俺は魅了された。葉の陰、水滴、間近に見る花……。それに、音がすばらしい。草花のざわめき、虫の声、ヘデラの葉ずれの音。こればっかりは劇場の音響万歳だ。いや、高いサウンドシステムを構築してるやつは勝手にすればいいさ。ともかく、小さい世界に没入できたんだ。
 だいたい、冒頭の父親との「借り」初体験がすばらしい。この、おっさん、創意工夫と鍛えられた体技。ベテランの特殊部隊みてえだ。かっこいい。惚れる。でも、やってることは、角砂糖やティッシュの泥棒だ、くそったれ、この対比がおかしい、たまらん。
 それでまあ、その舞台となるのが、まあこんな立派なお屋敷かどうかというところはともかくとして、われわれの家だ。たんなる家具や調理器具だ。だが、彼らの目から見れば、それは巨大要塞のようであり、未来都市のようであり……。
 ……そんなもん、アリキタリッティだ。お前に言われんでもわかっとる。だが、要は、そんなアリガッティなシチュエーションがどう描かれたかだ。すばらしく描かれたので俺は満足しました。おわり。違うか? それでいいだろ。俺はその描かれっぷりがすごく気に入った。おっさんのサバイバル・スキルについてのアイディア、世界を躍動するアリエッティ、それを美しいと思った。それでいいんだ。

でかいストーリーなんていらねえんだ

 盛り上がりに欠ける? クライマックスがない? いいんだべつに。そんなもんいるか。だいたいにして、小さい世界の話だ。人間が歩くだけで大地震の世界だ。そんな、大がかりな物語などいるものかよ。バルスとか言っても豆電球が割れるくらいの話でよろしい。むしろ、そこに徹したようなところがいいんだ。制作者やほかのやつがどう考えて、どう感じたかはしらねえが、それこそそんなアリガッティな(もうやめます、これ)展開はいらねえ。大立ち回りも奇跡もいらねえ。小さな世界を小さくを描ききって、俺はそこに満足したんだ。だいたい、家政婦と翔くんと母エッティをめぐるドタバタなんて、ストライクウィッチーズでいえば「スースーするの」みたいなものであって、それがどういうことかといえば、たいへん素晴らしいということを俺はいいたい。
 いや、ストーリーなんていらねえってのは言いすぎだ。ごめんなさい。だいたい「小さい世界」っつーのもちょっと違うかもしれない。でも、すげえこの、ミニマムなところでの話よ。でも、翔くんのさ、命かかってんだし、一方で、アリエッティ一家なんてのも、その翔くんの「よかれとおもったこと」でジェノサイドの危機だぜ。
 でもよ、それが世界だ。翔くんにとっちゃ、おまえ、てめえの命の消えゆくことと対面してる人間にとってみれば、滅びゆくものは種族だろうとなんだろうと、それは等身大みてえなもんだから、あんなこと言っちゃう。マジ世界。でも、その小さな、滅びゆきそうなもんであるところのアリエッティが「そんなことあらへん、まだまだガンガンやりまっせ!」ってポジティブなこと言ってて、そこんところに賭けるところがあって、心臓の一部になるんやろうが。グレート!
 それでもって、アリエッティは去っていって、翔くんの生死も定かではない! だが、それでいい! アリエッティは種族のために子を産むだろうが、そんなアリエッティは見たくないから去らせる! 少女は少女のままであれ! そして、美少年は美少年のままであるべきだから、翔くんの生も決定させない! 宮崎駿、グレート! (……いや、これについては俺の趣味か、後半は。いや、脚本が宮崎駿だからそうかとか。米林宏昌監督の趣味は知らない)

少女と美少年は美しいので正しく、老いた家政婦はみな醜いというのか

 しかしこの美しい世界で美しくないのはなにかといえば樹木希林だ。俺は正直、ここまで救いようなく描かれた樹木希林がこの世界に必要だったのかとすら思う。こいつは見ていて心底ムカムカきたし、その行動の理由というかそのあたりによくわからんことがあって、不気味さも感じた。不気味さでいえば、むしろ害虫駆除会社に「根こそぎぶっ殺しちゃってくださいな」と言ってくれたほうが、まだわかったかもしれない。
 いや、まあふつうに考えれば珍しい生物? 怪異? 妖精? を捕らえて、どこかに売ってやろう的な、そのあたりで想像しておきゃいいのだろうが。ただ、たぶんこれを見てる子供だって「うっしっし、テレビ局に売り渡してやろうか」などという台詞のひとつでもあればストンとわかりやすいだろ。でも、それがない。なんか理由あんのかもしれない。
 つーかむしろ、なんつーのか、小人たちが「目に見えるような悪意」にさらされたから引っ越さなきゃならねえって話じゃねえってことだろうとか、そんな風に思う。ババアにしても、子供心というか、好奇心みてえなもんだったかもしれねえし、おぼっちゃんが悪い妖怪にたぶらかされていると思ったのかもしれねえ(……というようには見えないけど、そういう可能性だってあんだろ)。ともかく、翔ぼっちゃんの「小さな親切よけいな虐殺未遂」みてえなのからわかるように、そのあたりなんだぜ。
 そう、すなわち、「巨大なものはすべて悪である」(田村隆一「緑色の顔の男」)なんだぜ。「きみに/悪が想像できるなら善なる心の持主だ/悪には悪を想像する力がない」(田村隆一「新年の手紙」)のだぜ。人間はでかくて67億人もいるから、まったく巨大であって悪なのだぜ。
 だから、ちいさく弱く滅び行くものは美しく、少女は美しいし、美少年も美しいので、もう敵はないのだぜ。一方で、年老いても家族と暮らすようなこともなく、別荘持ちの金持ちのガキにかしずいて生きなきゃいけない下層階級の家政婦なんてのは、仕事中に「小人は本当にいるんだ!」などとわけのわからないことを叫びながら馘首されて路頭に迷うのだぜ。あれ、断固として家政婦を応援したくなってきた! うそだ、冗談じゃねえよ、断固!!アリエッティ派。
 というか、夏休みの宿題というか、学校の感想文的な態度を取るならば、「地球上のいろいろの生命もアリエッティのようにそれぞれ創意工夫して一生懸命生きているのだと思いました。だから、人間もできるだけそれに想像をめぐらし、相手のことをよく知っていかなければいけないと思いました」みてえな、そんなところだろか。それに、年取るとなんか余計なお世話みてえなこともするだろうし、判断力が鈍ることもある。ほら、樹木希林のしたことだって、自然保護だと思って山野草採りまくる中高年みてえなもんだと思えば、ああ、やっぱりむかつくか。

そんなわけで、ともかくアリエッティはクソすばらしい

 まあともかく、まとめる気もねえけど、ともかくアリエッティはクソすばらしいといわざるをえない。なんとなく設定サイズにぶれが? とか感じたあたりも(しっかり確かめられないけど)、エヴァンゲリオンみたいなもので構わない。エンディングテーマにしても、思ってた以上に発音にくせがあって、それはそれで不思議な感じみたいなところもあるけど、日本語で歌ってるあたり、スーザン・ボイルに日本語を歌わせられなかった『宇宙ショーへようこそ』を軽く凌駕しているといってよい。
 正直、『ゲド戦記』みたいだったらどうしよう? というところもあった。だいたい『ゲド戦記』のよいところといえば、俺がル=グウィンを知るきっかけになっただけ、というくらいのもので。でも、あれだ、NHKでやってたドキュメンタリ、あれが大きかった。関係者試写会で、宮崎駿が最後まで観て、その上頬に一筋の光が……と。お前、『ゲド』のときなんて、上映中に席を立って、外に出て煙草吸ってたんだぜ。大違い。だから、「これはいけるんじゃねえの?」みたいなところもあって、なんかこう、レイトショーとか行ったんだ。観る前は、同じ日に観た『キャタピラー』と混ぜて、『借りぐらしのキャタピラー』なんてどうだろうなどと想像していたが、そんなものはどっかいった。すばらしい。ブラボー、ブラボー。俺はこれ気に入ったぞ。俺これ好きだ。わかったか! おしまい!

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