おおよそ子供の前で他人を馬鹿にしないことだ

 この間の事なんだが、俺んちで、俺・おかん・俺の彼女の3人でテレビ見ながら飯食ってた。
 ニュース番組のローカル情報コーナーで、どっかの花火大会のリポートをやっていたんだが、映像の最後に花火を見てた人の横顔がどアップで映し出された。
 その顔が、まあお世辞にもあまり画面映りが良くなく、俺とおかんは「綺麗な花火のリポートしといてシメにこの映像かよwwww」みたいな感じで笑ってた。まあ、よくある団らんの風景だ。
 だが、この会話に参加せず黙って聞いてた彼女が箸をとめて、いきなり俺とおかんに真顔で抗議してきた。
 彼女の主張は平たく言うとこうだ。
 人の外見的な特徴を笑いの種にするのは許せない。そんな話はすぐやめろ。

彼女が急に不機嫌になった

 おれはと言えば、完全にこの増田と増田のおかん側の人間であって、「不謹慎だ」と言われる側だ。「側」と大雑把に人間を分けてしまったとき、その真ん中あたりでなく、「側」の端っこの方にいるような人間だ。その自覚がある。
 そして、思い起こせば、わが家の家庭というのはそういうものであった。とくに父親がすごく、不謹慎という言葉は存在しないような人間であった。おおよそ世の中の人間を馬鹿にしているようなところがあって、始末が悪いことに、おそらく彼の頭は悪くないし、センスもあった。正直言って、ろくではない人間であったものの、今でもあれはひどく面白い発想のできる人だし、俺にとって数少ない「話せる」人間だと思う。まったくつきあいたくなる人間ではないし、ましてや親子などゴメンなのだけれども。
 まあともかく、幼少期から始まった、そこがよくなかった。やはり子供時代というのは親の影響が大きく、おれはそういうセンスという感覚というか価値観をもろに受けたわけで、テレビを観ながらテレビに突っ込むそのとき、どれだけきわどいことが言えるか、えげつないことを言えるか、それで笑いをとれるかとか、そんな感じで育っていった。
 むろん、それが一般的によしとされる感覚でないことは、小学校にでも通えばわかる。どうも、先生の肯定するような価値観というか、建前が存在するということだ。いや、建前でなく、きちんとそれを肯定して生きているような子供もいるということだ。親の手伝いをして毎日お風呂掃除をするサカモトくんや、親の言いつけをまもって毎日昼寝と自習の時間をとっていたスガイくん。彼らにとって、それが嫌々に見えない。そういう人間もいる、と。あるいは、「将来の夢」などを真面目に語れるやつとか。建前でなく、そういう人間がいるというのはちょっとした発見だった。
 そうだ、そのあたりがおれには完全に欠落していた。「真面目」というのがよくわからなかった。建前というものがあるのはよくわかるが、それをきちんと取り込んでいるような人間であるという状態がよくわからないのだ。努力や勤勉といったものも同じ袋に入ってる。なにやってんだ、家で漫画でも読んで眠くなったらとっとと寝ようぜ。
 とはいえ、おれは空気に敏感だし、目立つのも嫌い、度胸もない。先生を内心バカにするのは当たり前だが、面従腹背、大人しく言うことを聞く。そのように振舞おうとする。あるいは必要以上に振る舞い過ぎようとする。先生の言うことは全部内心でコケにしてる。道徳的な人間、よい魂をもったような人間には、なんとかして毒を回らせて、こっちに引き込めないかと思っている。こっちが人間の本性だと思ってる。でも、思ってるだけでどうするわけでもない。気を許せる人間がいても、どこまで許せるか慎重に間合いをはかる。はかるのが面倒で人間づきあいをやめる。想像通り、ろくな人間にはなれない。まさにご覧のとおりだ。
 どこかで読んだが、他人に冷笑的な態度をとる親を持つと、子もそうなるという。むろん、「いつまで親の影響云々でぐだぐだいってるんだ」と言われればそのとおりだろう。ただ、なんというのか、俺自身についてこれこれこのように考える俺という主体が、どうもそのようにできているのであって、これを三つ子の魂というのか性根というのかI am that I amというのかわからないが、あるいはOSなのか、なんなのか……。なんというのか、ほとんど根っこのところのものであって、どうもこれを変えるのは、急にピンク色の光線にあてられるとか、そういった強烈な体験、宗教的体験、それともロボトミー手術とか、そのようなものが必要な気がする。正直なところ、おれはよい物言いに毒づくおれを肯定しているし、いまだに人間がわかりあえる本性のようなものがあるとすれば、悪さや弱さだと思ってる。
 もし、わが子をこちらの人間にしたくなければ、おおよそ子供の前で他人を馬鹿にしないことだ。権威を尊敬し、道徳的なことを述べ、ときには愛や夢について語ればよい。