情報による情報のための情報が支配する世界へ

 尖閣ビデオの流出というものについて知ったのは、朝のワイドショーだったのだけれども、おれはそのとき「情報というもの!」と思ったのだった。それで、なにか松岡正剛の情報についてなんか言ってることの受け売りでも書こうと思ったりしたのだけれども、肝心の「受け」の部分が出てこない(脳内的に、そして本の在処的に)ので、「情報というもの!」というだけでなにかメモしてみるが、わけがわからない。わけがわからないなりに書く、俺がな?
 どうもなんというか、おの名乗りでた海上保安庁の40歳のおっさんがどうこうという話ではないような気がする。このおっさんの心情なり信条なり思想なり背景なり性格なり、なんかそういうパーソナリティが本質ではない、あるいはもう、海上保安庁の人間であるということすら関係ない。じゃあ、なにか国民の意志的なもの? あるいは、なにか組織の意志? とか、そういうんでもない。
 なんというか、あの映像記録という情報そのものが、そのもののままに、然るべきメディアを目指して飛び出てきたような、そんな気がしたのだ。
 情報というものがあって、それがこう、なんだ、コップのひび割れから自然と流れ落ちてきたというか、やかんでお湯沸かしたら蒸気が注ぎ口とかから出てくるとか、砂場で水を流したら自然と流れができるとか、そういう印象。わかんないかな? 俺にはわかんないけど。いや、だからもう、流出させた人間とか、あるいは世論とか、政治の意図とか、もちろん「ある」に決まってるんだけれども、それはせいぜい、というか、なんというか、重要でないわけではないにせよ、もっと大きななにかからしたら、たまたまの、道具程度のものだろうと。
 情報そのもの、然るべき、あるべきところに、流れていく、それ自体にとって、今のこの世はおおよそ今までにはありえないほどの「あるべきところ」、「流れていくところ」がある。その多くは技術によるものであって、狼煙や、筆記や、活版印刷、ラジオ、テレビ、それぞれの段階を経てきて、またここで一段と飛躍したというか、根本的に変わったといえるほどのことかどうかはわからんが、少なくとも、これまでとは違い、これまでより一層、誰かの意志で御せないものになってきた、なってゆくのではないかという。
 そして、その御せなくなった情報というものが、人間の積み上げてきた、ものの仕組み、社会のシステムであるとか、そういうものをどうにかしてしまうような、そんなことはないだろうか。人間のスペックなど有史以来たいして変わってないだろうが、人間の積み上げてきた仕組みやシステムを、情報技術が食うような。だって、かつては情報になり得なかったものも、すべて記録され、蓄積され、流れる先を探している、そんな状態。観測機器の、蓄積の、流通の技術の進歩。中国漁船から海保もまた撮られていたのだ。
 情報化社会だの、情報社会だのという言葉がずいぶん昔からあって、どうもなんとなく薄らぼんやりと受け取ってはいたが、あるいはこれがそうなのだろうか、などと、また薄らぼんやりと思い、さて、これも流してしまうぞ、ほら! ッターン!(←勢いよくEnterを叩く音。もっとも、叩いても
段落がかわるだけだが)