絶望を描くことの希望、『海炭市叙景』

海炭市叙景を観よう

 「海炭市叙景」というタイトルにひかれた。知ったのは上の産経新聞の記事だった。消えていて今はもう読めない。いずれにせよ「海炭市」、海炭市の三文字、そこから想起してくるもの。
 ファンタジーの名前、まず、そんな印象を受けた。架空感がとても強い。なにかの空想世界で、その都市のイメージをあえてわかりやすくするようにつけた。そんな名前だ。かといって、ダンセイニ卿や稲垣足穂のつける遠い異国でもない。どこかにはありそうな、どこか。高橋睦郎の言うところの「シンゴー町」のような場所。そしてそこは、海と炭、あるいは海炭という鉱物と関係ある場所。あまり明るい印象はない。炭鉱の町は寂れたものの代名詞だ。
 そんな街の叙景。海辺の叙景。俺は放っておくと人気のない埠頭やうらさみしい港(いずれにせよ釣り人がいる)に出てしまうような人間なのだし、この映画は見なくてはならないと思った。そう思ったので、有馬記念で本命にしたルーラーシップ日経新春杯も、アサヒライジングの弟の出る京成杯も無視して俺はアパートを出たのだった。

 やけに照り返しの強いイセザキモールをぐんぐん進む。照り返しといえば、今朝やっていた女子駅伝の京都の路面もやけに光っていた。そして、京都の街からの山の見え方に妙におどろいた。もっとも、俺は山よりも海寄りの人間なのだ。だから、叙景なのだ。

 はい、ジャック&ベティきたこれ。観たいと思った映画が徒歩圏内で上映される喜びを感じなくてはいけない。上映30分前ほどに着く。少し早すぎた。とりあえずチケットを買う。五回見たら一回タダというスタンプカードをもらう。ずいぶん割引率の高い話だ、と過去二回くらい思ったか。上映近くになると列ができる。数えたりはしない。
 座席は前の方。しばらくするとここのところ悩まされている腰痛に襲われる。左下の背中側が痛くなり、それが突き抜けて腹の方まで痛くなる。適当に腰をくねらせるなどして凌ぐ。映画館にはインドメタシン的なものを必ず持ってくるようにしよう。ちなみに、座席のせいでは決してなく、歩いていてもそうなるので。

海炭市叙景を観た

 さて、感想だが。まずはじめに言っておくと、かなり圧倒された。海炭市行って帰ってきたか、あるいは魂を置き去りにしてきたような気になる。しばらく目や耳をふさいで、余韻にひたりたくなる。
 とはいえ、美しい思い出の余韻に浸るというわけにはいかない。海炭市は圧倒的に生々しいところなのだ。生々しい。正月に親戚と会って、うつ病になりそうだという家庭事情を聞いて、肯定も否定も口にできなかった、ついこないだのことなどを思い出す。どこにでもあるが、そこにしかない悲惨、閉塞、破綻、崩壊。そこに人間が生きていて、生きている家が、部屋が、仕事場があって、悲惨がある。外は寒い。
 そんなに暗く、夢も希望もない話だったのだろうか。さて、どうだろうか、人が見てどう感じるかは知らない。ただ、絶望嗜好症の俺には、あまりにもその面が強かった。仕事は奪われ、ミニスカートの後ろ姿が妙に若い妻は寝取られ、飲み屋ではぼったくられる、暴力は連鎖する。……地方で生きるということ、という点について、俺にはどうにも語りようがないが。
 悲劇の物語、ではない。当たり前の、しかし個々の人間の不幸のドキュメンタリ。画面のあらゆるものに裏打ちされたリアル。そう、隙のない画面。俺は映画の中の部屋の中がいい加減だとけっこう簡単にうんざりしてしまうが、この作品に限ってそんなことはなかった。子供部屋のネームプレートが語るものもある。あるいは、プロパンガスを軽トラの荷台から下ろして運ぶ動作、路面電車の運転士のすること、あるいはナレーションに口パクをあわせるプラネタリウム技師。それらすべてが焼き付けられていて、俺をそちらに運んでしまう。
 しかし、悲惨な人間のありさまを、追体験したり、その中に放りこまれたような気になることの、どこがよい体験なのだろうか。そんな映画を見て、なにがよいのだろうか。むろん、救いも用意されているだろう。そう解釈できる終わり方もあるだろう。ただ、そればかりでなく、人間とか世界が、このようなものだというようものが、そこにあって、それに……共感するとでもいうような、それがあるところに、なにかよいと思わせる何かがあるのだろう。
 何かがある。俺は人間の弱さや悪さ、ずるさ、愚かさにつよく惹かれるし、そこからしか人間は分かり合えないとすら思っている。そういうものが描かれている世界を見て、俺は世界を肯定するのかもしれない。正義や聡明さ、勇気、英雄的行動、そんなものはヤギにでも食わせておけ。
 しかし、俺の好む世界の中に、ひとかけらの正義や聡明さ、勇気、英雄的行動が含まれていたらどうだろうか。俺は喉につっかえながらも、それを飲み込まなければいけないだろう。たとえば、この映画のエンドロールの凄まじいさに俺は「うっ」となった。それがなにかは、俺にしかわからないだろう、いや、俺にもよくわからないが。うそ、要するに、「このようにして地方都市も日本も終わっていくのだ」というところに、この映画に協力した恐るべき数の人間がいるということへの畏怖みたいなものだ。決して観光地紹介の函館賛美映画なんかじゃねえのだよ、まったく。

 ……映画館から出ると、外は暗かった。煙草を吸ってる女がいた。その煙を見てか、散った灰を見てか、つかの間、雪が降っているのかと思った。暗くなったイセザキモールを歩きながら、そういえば俺は暗い夜の函館を知っていることに気づいた。それについてはいつか書こうか。

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