小説『海炭市叙景』を読む

映画の感想

海炭市叙景 (小学館文庫)

海炭市叙景 (小学館文庫)

 映画を見終える、物販で小説を売っているという。迷わず買う。『海炭市叙景』気分だったからだ。ただ、読むのはしばらく経ってからにしようかと思った。しばらくは、映画の方にとらわれていたかったからだ。
 が、試しにちょっとと読んでみたらあっという間、全部読んでしまったのだった。これには若干の後悔がある。頭の中で、映画と小説がごっちゃになってしまった。実のところ、上の映画の感想は、より悲惨な印象が強調されていると思う。小説のほうには救いがある。いや、救いというか、前向きな話もある、明るい話もある。単純に明るい、救われる、そんなわけではないのだけれども、やはり当たり前の人生の、家庭のよさのようなものもある。……という、小説の感想も、映画と逆のほうに引っ張りすぎているところはあるだろう。要するに、ちょっとわけがわからなくなっている。小説の短編のうち、どれが映画に使われたか、それすらも怪しい。映像化されていない短編のイメージが捏造されている。いずれにせよ、根本のところで食い違っているわけではない。
 その上で感じたことだが、やはり見逃せない違いがある。時代の違いということだ。小説の海炭市はやはり小説の書かれたころだろうか、80年代終わりから90年代はじめ、あるいはそれから少しさかのぼったあたり。短編の多くに移り変わる街の様子が描かれている。産業の変化、塗り替えられていく街の地図、古い住民と新しい住民、古い世代と新しい世代。藤原新也を読んでいるよう。ともかく、そこに移り変わりがある。やはり仕事は「首都」(東京、あるいは東京方面をこう表現することが多い)に比べればないし、工業団地も単なる空き地になりそうだ。とはいえ、新しくできつつある市街地があるのだ。
 一方で、映画はというと、立退き話に関しては出てきたものの、さてどうだろうか。画面の中にはっきり出てきた通りの2010年、やはりその段階は終えてしまった。その後の今。今まさに。しょせん人間は変わらないのだが、かといって街がいつまでも同じわけでもない。あと5年違えば、地デジ率も変わってきたはずだ。いや、地デジどうでもいいか(テレビ見るシーンはひとつのキーだが)。
 まあともかく、映画より多くの海炭市の人間模様が描かれているわけだ。文章は切れがよくザクザク来る。三人称なんだけど、視点がサクッと入れ替わって主人公をスパッと切ったりもする。ウェットではなくドライ。だからといってカラカラでもなく、サラッとした雪のような。ただ、根っこのところにドロッとした春の性欲、Memory and desire, stirringみたいなものが脈打ってる。そこのところのセックスの気配、映画の方は薄めだったかと思う。
 また、物によっては、というかとくに最後の「しずかな若者」などはずいぶんにバブリーなリア充テイスト強かったり、描かれる対象によってかどうか、いろいろの印象がある。「この日曜日」は村上春樹っぽいような気がしないでもないし、職安職員のスノッブっぷりを描いた「衛生的生活」は結構に皮肉的でロアルド・ダールみたいだとか思ったり。もちろん、ひとつ街があれば、いろんなやつがいるのと一緒だわな。それで、作者というのはおおよそクズ賛美ということはないが、糾弾もしなければ否定もしない。そのあたりはクールだけに際立つところがある。嫌いじゃない。
 あと、忘れちゃいけないのが、野球を描いた「大事なこと」と、競馬を描いた「夢みる力」。それぞれ、野球短編、競馬短編のアンソロジーがあったら入れておきたいと思わせる。
 「大事なこと」は、草野球選手で生コンを運ぶ運転手の話。彼と彼のチームメートそれぞれの人生と、彼らがひいきにするプロ野球選手の人生について。

 あいつには最初から打者の才能があったんだ。
 甲子園で優勝投手になって、プロ野球の最下位チームからドラフト一位に指名された時以来、忠夫は彼のことをそう信じていた。あの頃から俺は、と忠夫は思う。

……幼稚園バスの運転手が、忠夫にプロの選手で誰が一番好きか、とたずねたのだ。忠夫は、もちろんあいつの名をいった。すると、幼稚園バスの運転手は、あの男は不良だぞ、といったのだ。忠夫はあきれた。

 べつにネタバレでもないだろうから書くが、この「あいつ」は愛甲猛だろう。この忠夫が作者の分身というわけではないが、もしも愛甲に対する感情が作者のそれと一致しているのかと思うと、少し考えてしまうところがある。
 一方、将来、親の経営する幼稚園のバス運転手をしている男が好きなのは、次のような選手だ。

え。あんたの好きな野球選手をあててやろうか。元、大打者の息子だろ。今年プロに入った、あの青年だろ。

 これについては名前を書くまでもあるまい。まあ、固有名詞など出さないほうがいい。そう、海炭市は日本にあるとも限らない。極力、固有名詞を、地名を避けているようにも感じる。そして、そこがいい。ここまで圧倒的にリアルな一方で、ふと考えれば「海炭市」という空想の街。意識がそこを行き来するところが、むしろいい。たとえば、これが「函館市」だとすると、どこかしら飛翔しているものが地についてしまうような、そんなところがあるように思う。/あれも余談、これも余談だが、小説「裂けた爪」で「ばんそうこう」となっている台詞、映画では北海道方言「サビオ」と言っていたように思う。とはいえ、映画は画面に映さねばならないところもあって、そのあたりでリアルの作り方は異なるはずだ。
 しかし、競馬狂いに陥った男が主役の「夢みる力」では、思いがけず競走馬名が出てくる。

確か、グランパスドリームという名前の馬だった。全くの無印だったが、一着に突っ込んだ。配当はいくらだったか。女房はその馬を、自分の父親にちなんで買ったのだ。お爺ちゃんの夢だもの、と彼女はいった。

 グランパスドリーム。義父の夢。店をたたんでからは義母と、つつましく生活していた。まだ五千円残っている。すてたものではない。窓口が近づく。男たちが馬券を買っている。列は短い。小博打で、どうにかなる人生なんてものはどこにもない。そんなことは俺だって知っている。

 この二番目の文章は好きだ。ブコウスキーのようだ。それはともかく、グランパスドリームだ。競馬ファンとしては(原文ママ)と入れたくはなる。これから思い浮かべる名はグランパズドリーム。ただ、グランパズドリームの人気と着順を見てみると、全くの無印で一着になったことはなさそうだ。あるいは、作者の中では、ダービーでダイナガリバーを撃破したのかもしれない。それで、名前をちょっぴり変えて出てきたと。いや、海炭市のある世界の話だ。他馬に関係ない空似だろう。
 そもそも、俺はこの作者が競馬をやっていたかどうかも知らない。知らないが、この「夢みる力」というのは、読んでいて嫌な汗が出てくるような代物だ。博打のドツボにはまり込んだ人間の心理が、嫌になるくらい描かれている。だから、ほかにめぼしい馬がいないからといって、血統などをよく吟味しないで、ダート未勝利勝ったばかりの馬を、人気薄だからって買ったらだめだろって! 
 まあ、ともかく、いずれにせよ、(←これが多いときはだいたい眠くなってきた証拠)、タイトルその他から気になってるやつがいたら、読むべき。おしまい。