笑いの暴力は許されるのか〜『Joan Rivers:A Piece of Work』〜

モンスター


 『松嶋×町山 未公開映画を観るTV』で『Joan Rivers:A Piece of Work』というドキュメンタリ映画をやっていた。主人公はジョーン・リバーズという75歳のスタンダップ・コメディアン。TVショーの成功者。エリザベス女王しか住まないような部屋に住む大金持ち。ただ、今や落ち目、あの人は今、仕事はQVCの通販番組。が、まだまだこれからだ、work in progressだと、猛進していく。
 それでもう、この人はモンスター。無茶苦茶だ。ワークライフバランスなんて言葉は存在しない。全身コメディアン(本人曰く女優)。仕事、仕事、仕事。それで、武器は相当に下品な下ネタ。上のトレーラーでも見られるけど「私はジジイが嫌い、ババアも嫌い、ガキも嫌い、でもアナルは好き。後ろでやられながら、ブラックベリーでEメールのチェックもできる」とか、85歳のジジイがシアリス飲んでカサカサのババアとインアウトしてて、発火したらどうすんだとか、そんなん。しかも、75歳にして衰え知らず、に見える。人体改造してんのはともかく、頭の回転も無茶苦茶速い。実際ブラックベリー使ってるし、スタッフに「ブログとツイッターにあの腐れマンコって書き込んどいて!」とか。まったく。
 それで、この人がテレビに出てきたときは、「女芸人が下ネタなんて」みたいな、そういう空気はあった。その点は前人未踏。このあたり、女芸人と下ネタ問題とすると、日本の芸能界では誰だろうかとか、それはいつだろうかとか、そういう見方もできるだろう。あるいは、もっとジェンダー? や性の問題というところからも語れるはず。また、出自がユダヤ人であるとか、あるいは今は老人であるということ、というのもあるかもしれない。アメリカ人から見たら、この貪欲や執着についてなにか思うところはあるかもしれない。まあ、ともかくすげえんだぜ。

子供を持つならヘレン・ケラー

 で、そんな中で、俺が一番「これは!」と思うシーンがある。どっかのドサ周りの会場。笑いに包まれる会場。そこで彼女が「子供はギャーギャー騷いで、うるさいから嫌い」って振って、「娘にするならヘレン・ケラーがいいわ」と言いい、呆けたように口開けるわけ。で、会場はドッとくるんだけれども、そこで「笑えねえ!」と大声で男の野次。静まる会場。すかさず「大うけよ、嫌ならお帰り!」と返すリヴァーズ。それに対して男は「失聴児(deaf son?)を持ってみろ!」と。
 これはもう、ステージにとって絶体絶命のピンチ。が、そこで75歳の女芸人はフリーズしたりしない。頭の中を高速回転させる。すかさず、「わたしの母も失聴者(deaf mother)よ」と、コメディの素人が口出しするな、stupid asshole、と。で、野次るほうが「じゃあ(コメディがなんなのか)言ってみろ」みたいになって、それに対してリヴァーズはこう答える。
 「コメディとは喜び悲しみすべてを笑いにすることさ」
 そして、(合間に罵倒語いれつつ)、脚のない男と暮らしたジョーク、さらには「9.11だって笑い飛ばさなきゃやってられない」といって、ビンラディンジョークを叩き込む。会場は盛り上がってショーは終わる。

ショーが終わって

 このショー終わりのリヴァーズが興味深かった。「なにあれ、鍛えられるわね」って、大ベテランでも焦るアクシデントだと伺わせる。で、そのあとのサイン会なんだけれども、ファンの中年女性が「あの男はなんなの。コメディなのに。つまみだそうかと思ったわ」とか言うわけ。したら、リヴァーズ応えて「でも、彼には失聴者の子供がいるのよ」と、野次った男をかばうわけだ。さらに、帰り道カメラに向かって、「彼には悪いことをした。彼の怒りは十分に理解できる」「抗議したことで、彼はスッキリしたかもしれない」というようなことを言うわけ。
 これなんだよ。俺が見るに、これはポーズとかじゃないの。だいたい、けっこう打たれ弱くてセンシティブなところあるのよ、この人。それはほかのシーンからわかる。たぶん、これはポーズじゃないし、本心。でも、ステージの上では場の空気を守るために、あえて罵倒すんだ。こっちと、向こう、みたいなものがある。で、おそらく、どんなに過激なことをネタにしようとも、こっち側に戻ってこれる、あるいは軸足のあるような人間じゃねえと、エンターテイナーとして大成功できはしないだろう、などと思うが。まあ、わからんがね。

白熱脳内教室

 しかし、あの場で起こったことは、正しかったのだろうか。リヴァーズを追う映像を見て、彼女の側に経ちすぎてはいないだろうか。あるいは、この問題は「ジョークだからといってどんなことを言っても、差別的な発言をしても許されるのか」と言い換えることもできるだろう。まずは、リヴァーズが間違っていると考える人の意見を聞いてみたい。(←ついこないだ「ハーバード白熱教室」見たばかり脳の恐怖)
「彼女が自分の母親にも障害があると言ったことは不誠実だと思います。その場では真実かどうかわかりませんし、だいたい彼女の母親の障害と、抗議した男性の子供の障害とは、別問題だからです。もし、私が障害者だとしても、べつの障害者を差別していいということにはならないと思います」
 よろしい。では君。
「言葉の暴力という言葉がありますが、べつに<言葉の>とつける必要はないと思います。暴力そのものです。言葉を投げかけられ、傷つけられるというのは、急に誰かに殴られるようなものです。ですから、やられた側には自衛する権利もあるし、抗議するのは当たり前なのではないでしょうか」
 それでは君は、あの抗議があった時点でショーをやめるべきだったと?
「いえ、そこまでする必要はありません。ただ、あそこまで男性を罵倒し、晒し者にする必要はなかったはずです」
 よろしい。
 では、逆に抗議した男性が間違っているという人はいるだろうか。そこの君。
「まずはじめに、これが起こった場所を考える必要があります。街角やスーパーマーケットの中でありません。会場に来ている人は、たとえ誰かに誘われてきたのであれ、そこでジョーン・リヴァーズのショーが行われると知っていたはずです。彼女がどんな芸風なのか知らない人はいません。少なくとも、夢路いとし喜味こいし師匠とは違うのは承知の上のはずです。彼女が毒舌をふるい、セックスのことからきわどい民族ジョークまでふるうのは、十分に予見できたことです。もし彼が、失聴の子供に対する差別に敏感であれば、このショーに来ないという選択肢があったはずです」
 なるほど。他には?
「この男性は、ショーをここまで見てきて、失聴に対する差別的なジョーク以外に抗議の声を上げませんでした。そこに問題があるように思います。彼は、

(筆者注:ここまで書いてから4、5日後経ちましたので、もう、自分がなに考えていたのかとかよくわかりませんが続けます)

ひどく恣意的な選択したのではないでしょうか。公正や正義に基づいたものではない、ということです。もし、リヴァーズの芸に社会的な価値から批判するのであれば、言論によってひろく呼びかけるべきです」
 なるほど、反論は?
「社会的な正義や道徳というものは、個々人の体験から導き出されるものだと思います。彼が、失聴者を笑いものをした芸を見た瞬間に、なにかに気づいたというのは、決して責められるべきではありません。ニーメラーの詩ではありませんが、自分の番が来てから気づくことはありますし、そこで声をあげることが誤りではないと思います」
 なるほど、他には?
「限られスペース、自らの意思と判断で集まった人たちを相手にしたものとはいえ、そこで差別的表現が許されるという考え方には疑問です。たとえば、これがKKKのような人種差別集会であったとしても、そこで声をあげることは許されないのでしょうか。‘これはコメディなのに’と同じように‘これは宗教的な集まりなのだから’というように。集会の自由は重大な権利であるのは言うまでもありません。しかし、だからといってヘイトスピーチを見逃していいのでしょうか。スピーチそれ自体は暴力たりうるし、さらにフィジカルな暴力に、肉体的な死に繋がるようなものを許していいのでしょうか」
 なるほど、反論は?
「それが‘ヘイトスピーチ’であると、誰が判断するのでしょうか。独裁的な国家にとっては、われわれ自由主義諸国民が当たり前のものとして享受している言論、支配者にとって不都合な言論こそ、それに当たるかもしれません。やはり、集会は自由にすべきであるし、判断力のあるとされる人間が、自分の意思で集まる限り、ブラックユーモアを笑うこともできるし、四国の乱を起こしてもいいのではないでしょうか」
 なるほど、ほかには?
「わたしは、この事柄を取り扱うのに、彼女の長い芸歴の、その日のステージの一コマばかり取りあげるのが妥当なことかどうか疑問に思います。政治演説だろうと、小説だろうと、映画だろうと、ある部分だけ切り離せば、全体の持ちうる意味とかけ離れた読み方を付与することが可能です。そもそも、彼女のコメディがなにを表現しているのか。それは観客にとってどんな印象を与えるのか、あるいは、社会にとってどういったものなのかと検討することが必要ではないかと思います。つまりは、リヴァーズが差別主義を称揚し、煽動する人間であるかどうかという検討が加えられるべきです」
 なるろろ、おあには?
「コメディとはなにか。いや、笑いとはなにか、これが重要なポイントであると思います。また、彼女が‘笑いとばさなきゃやってられないのよ’と言う、その‘やって’る事とはなんなのか、ということです。人間のやらなければいけないことがあるとして、それに対して笑いというものが欠かざるものであるかどうか。そして、その笑いという欠かざるべきものを呼び起こす手段の一つとして、差別的、攻撃的な内容が必要であったか考える必要があるのではないでしょうか」
 おあ、反論あ?
「ちょっと待ってほしい。笑いというのはなにかの‘手段’に過ぎないのだろうか。そのような目的論には違和感をおぼえる。よき人生のためのよき笑い。差別的表現でなくとも人は笑うので、そのような表現は規制しよう。その結果、文部省推薦の無毒なお楽しみショーばかりになって、それが望ましいことと言えるのかい? 笑点くらいの毒で満足する人生が。いや、人によってはそれでいいだろう。しかし、そうでない、そんなものでは笑い飛ばせない、人、やってられない人だっているずだ。彼らの望みは社会にとって害悪で、排除されなければならないのだろうか。彼らの人生は、社会のためのものなのだろうか」
 おららら?
「望ましいのは、あれはよい表現、許されるファニーで、これは許されざるものだ、などと、誰かがあらかじめ線引きすることではない。人々が自由な表現をする中にあって、抗議や対話、議論が起きて、常に揺れ動いていく、ということだ。その意味で、このケースではありとあらゆるものを嘲笑し、笑いにしてしまう芸人の態度も、抗議した男も、どちらも正しい、このようなありようは正しいということだ。できれば、ステージの裏のリヴァーズの言葉も、その日の観客に伝わればいいだろう。いや、彼が抗議した時点で、それまで彼女のネタで笑っていた自分たちがなんなのか顧みない人はいないだろう。しかし、それでも笑うんだよ」
 あわぁゎあ?
「対話と議論と言いますが、どのような形の対話や議論でも、それが公正さにつながるのでしょうか。対話や議論は、同じ条件の人間がテーブルについて、まず対話や議論への尊敬を共有したうえで行われなければ意味がありません。私の手にいつでも撃てるグロック18Cがあり、あなたは全身を縛られて丸裸で床に這いつくばっているとして、そこで話し合いが行われて、協調や反省が生まれるでしょうか。人はみな、100万の兵を怖れぬスパルタ人ではないのです。この日のケースでいえば、モンスターのような女芸人と、それに与するであろう人間が大勢いました。その中で声をあげた彼は特別に勇気のある例なのです。普通は、その場で声をあげることすらかなわないでしょう。なにか嫌な気持ちを抱いて家に帰って、ブログで経験を書くことくらいしかできません。しかし、そのブログだって炎上するかもしれない。やはり、あらかじめのルールが求められるのではないでしょうか。それを定めるのはわれわれの共同体であり、法という形をとる以外、今のところ選択肢はありません」

(筆者注:また二日経ちました)

 なーぽそ、おかにああ。
「笑いの価値という点についてふたたび考え直してみたいと思う。笑いをもたらすものとして、道化師という存在がある。古く宮廷道化師は時の絶対権力者に対しても、自由にものを言うことが許されていたという。その史実的な面を置いておくとして、そのような存在が王にとって必要であったという点が見逃せないのではないか。言うまでもない、現代の自由民主主義社会で人民のガバナーは人民だ。ときに、その権力者であるわれわれ、われわれの信じる価値観や道徳、思想、常識を笑いとばすことが必要なのではないか。政治家を笑いとばすことが許され、ときにはそれが望ましい自由と権利であるとされるのと同様に、障害者を差別してはならない、笑いものにしてはならないという常識、マナー、通念をひっくり返すことが必要ではないか。ひっくり返して、ひっくり返ったままではならない。ただ、ひっくり返されることにより、思考が揺さぶられ、一回転して戻ったところは前よりも厚みや深みがあるはずだ。また、それを引き起こした芸人、ときには芸術家や小説家などもそれにあたるだろうが、彼らはそのときある種の特権、いや、あらゆる体系の外側の存在として、宮廷道化師のように、罪があるとしても免罪されなければならない」
 はんあらんあらなな?
「ときに、既存の価値観に対する揺さぶりが必要という点について、これをまったく否定することはできません。しかしながら、揺さぶりをかける芸人であれ芸術家であれ、表現者とその表現が社会の外側にあるというのは、あまりにも純粋すぎる見方ではないでしょうか。表現者や表現は、ときに権力やイデオロギーの道具にもなりうるものですし、表現者の能力が高ければ強力なデマゴーグ装置として機能するでしょう。表現者は決して心身喪失した神がかりではありませんし、神託を受けた巫女でもないのです。彼らの表現とて、公道を走る自動車に課せられる義務と同じく制限を受けるべきものです。もし、時速150マイルでスポーツカーを走らせたければ、それが許されるサーキットや自宅の庭でやるべきなのです。もちろん、自宅の庭で走り回り、騒音が隣の家の迷惑になれば、それはまたルールとの折り合いが求められるでしょう」
 そおおの、きみい。
「私がそもそも考えるのは、このリヴァーズのジョークってそもそもおもしろいですか? よく言うよ、このババアという見方から、失笑をもらす程度のものでしょう。あの程度のものについて、笑いの効用や意義を論じることに価値があるのか、考え直してみる必要があるのではないでしょうか。こんなにいろいろのことを考える必要があるのか、と。彼女は下卑たジョークでヘレン・ケラーや障害者を馬鹿にした。それに対する抗議を、彼女のファンばかりという会場の空気を味方につけ、芸人のキャリアと素質で適当に切り抜けた。これが全てではないかと」
 あなろんんら?
「面白いかどうか、表現が優れているかどうかで、それを発する権利の指標としてよいのでしょうか。たしかに、世の中の表現には巧拙というものもありますし、多くの人に受け容れられやすいものもあれば、極少数の人にしか認められないものもあります。また、多くの人に受け容れられているからといって、本当に価値があるかどうかなどは、おおよそベストセラーや全米NO.1がどのようなものかを考えればわかるでしょう。しかし、商業主義にまみれた作品から、まったくそうでないものまで、等しく表現というものをあつかう、一つの視点があるべきではないでしょうか。一番くだらなく、下品で、価値の無さそうなものをして、それこそが一番大切であると、そういう視点が」
 ほぁにぁ。
「やはり私は、どんな毒のある表現、毒のあるもの、毒そのものでも、人間にとって必要不可欠なものであると思う。いや、人間のために必要とか、社会のためにはかえっていい、とか、効用や効果の範疇で語ることすらおもしろくない。

(筆者注:また一日)

 表現というのは絶対に自由なものでしかありえない。人間の中に湧いてくるなにかは、どうしようもないものだし、湧いて出たなにかは、その情報はなにかの経路をとって外に出たがるものだ。ただ、問題はその後なのだ。いや、その後に問題にするしかない。いわば、戦争のようなものでもある。基本的には、相手を殲滅するためならなにをやってもいい。ただし、強力の持ち主に徒手空拳で挑みがかったら負けるだけだ。戦争目的規制や戦闘経過規制に似たなにかもあるだろう。戦争犯罪で、事後に裁かれることもある。
 また、国民のことも考えてしかるべきであろう。一人の人間の中には、いろいろの考え方や感情を抱いた国民がいる。憎悪も悪意も、常識も非常識も同居している。内心でものすごく笑えるに違いない差別ジョークを思いついたとして、しかし、目の前の九人を大笑いさせる一方で、一人をひどく傷つける可能性があったとして、そのときどうするか。その場がどんな場所か、十人と自分の関係、あるいはその一人がいるのかいないのか、特定されているのかどうか、その一人との関係はどうか。さまざな要因が絡んでくるだろう。
 それでも、言わなきゃいけないんだよ、となる。内心の国民投票でそういう結論になる場合もある、そういう業を背負ったやつもいる、それで間違うやつもいる。でも、そういうものなのだ。
 しかるに、その他国たる他人に影響を及ぼす、無駄な戦争を回避させようというとき、どういう手段をするべきか。これもまた、外交戦略のような形をとるだろう。場合によっては経済制裁のような形もあるだろうし、べつの場合はその国の国民を啓蒙しよう、情報を与えようとすることもあるだろう。単に仲良くなるというのも手かも知れない。
 このように、人間の表現するということは、一筋縄では解決しがたいものであり、また、解決させる手段があるからといって解決させてはならないものなのだ」
 反論は?
「それは単に人間を国に例えただけのたとえ話で、たとえば国際社会のありように対してあまりにも無批判すぎるものと思います……(きりがないのでおしまい)

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