男盛りの強健な男たちが、地下鉄の座席で眠りこけてしまうのだ

 疲労。耐え難く、つらい、ときには死が願わしいばかりに苦痛にみちた疲労。だれもがありとあらゆる境遇で疲れることの何たるかは知っているが、この疲労には特別な名前が必要だろう。男盛りの強健な男たちが、地下鉄の座席で眠りこけてしまうのだ。何かつらい仕事があったというわけではなく、平常の一日の労働が終わっただけでそうなってしまう。その一日は、明日も明後日もつねにくり返される当たり前の一日であるにすぎない。

 働きながら、きつい労働だとつくづく思いました。夕方四時に、職工長が、八百個仕上げられなければ私を解雇する、といいにきました。「あんたがいまから八百個できるなら、わしもあんたを置いとくことに《たぶん、同意するだろうよ》」というのです。おわかりでしょう、われわれが働きすぎて死んでしまうかも知れないというのに、向こうは恩恵を施したつもりなのです。だから、お礼をいわなければなりません。

 わずかな給料のためにこんな閉塞された場所で、毎日の作業を繰返し、生涯を朽ちさせるのなら、半分の給料でいいから、やりたいときだけやればいい作業の方がいいと考えたりする。だがそういう作業は、半分の給料すら支払われない。

もう少しのところで、わたしは、労働者のたましいの救いは、何よりも第一に、体力にかかっていると結論したくなる。たくましくない人たちが、なんらかの絶望的な状態におちこまずにすませるとは、とても思えない。たとえば、酒に酔うこと、浮浪化、犯罪、放蕩、あるいはまた、大ていの場合がそうであるように、考える力の麻痺。(そして、宗教もそうではないか)

 これは、2011年2月12日に放送された「NHKスペシャル日本の、これから 無縁社会 働く世代の孤立を防げ」で紹介された派遣労働者の声である。嘘である。1934年〜1935年ころにwikipedia:シモーヌ・ヴェイユが工場労働を体験して書き留めた言葉だ。ただ、上から三つ目は吉本隆明の「覚書」であって、ヴェイユ直接のものではない。『甦えるヴェイユ』からの引用だ。

 この本である。ただ、俺の手元にあるのは、JICCが1992年に出したハードカバー版である。まあ、細かいことはよろしい。俺はこの『甦えるヴェイユ』の3章「工場体験論」を読んで、「労働とはなんだろう?」などと、あらためて考えてしまったのである。
 しかしまあ、時代も違えば、国も違う、仕事の内容も違う。それに、これを書いたヴェイユはといえばなんだかよくわからんが非常にかしこくて、多少おかしなところもあるようだけれども、少なくとも80年近くたったここまで届くキック力のある思想家だ。べつに選択の余地なく工場労働したわけではなく(彼女の内心において必然の決断だった、とかいう話があるかもしらんが、それは無視するとして)、自ら「個人的研究」のために教職を休職しての話だ。

 ただ私にはボルシェヴィキの領袖たちが《自由な》労働階級を創造すると主張し、しかも彼らのうち誰一人として――トロツキーは確実、レーニンもそうだと思います――どうやら工場に足を踏み入れたこともなく、したがって労働者の隷従か自由かを決定する現実の諸条件については、世にもかすかな理念さえ抱いてはいなかった、ということを考えますと、政治というものが不吉なばか話のように見えるのです。
(アルベルチーヌ・テヴノン夫人宛の手紙)

 あと、こういう目的もあったろうか、Хождение в народ? まあともかく、いろいろと違うのに、同じような光景がその時代のフランスにもあったんじゃないかと、そんなふうに感じるわけだ。
 いったい、なんなのだろう? 近代化がそうさせたのか? そこで労働、賃労働が生まれたのか? それとも、さらにさかのぼって農奴は? 封建制の時代は? 鞭で叩かれながら世界遺産を造らされていた連中は? 

食人の風習の後、奴隸制が登場しました。奴隸制の後、農奴制が、農奴制の後、賃金奴隸制が登場しました。
バクーニン「ロークルおよびショー・ド・フォンの国際労働者協会の友人たちへ」

 どこかで読んだと思ったら、バクーニン先生でしたか。あとは、田村隆一の「奴隷の歓び」……いや、話がそれていきそうなので、ここまで。ともかく、なんとなく、「労働」がどこでどう生まれたかとかいうような話は、おそらくなにかかなり基礎的な、基本的な話であって、大学教育を受けていない俺にはようわからんが、いつかどこかで読むこともあるだろう(Wikipedia先生にたよってみたら「文章の表現が冗長(過剰)・執筆者の個人の主観での記述や批評・スタイルマニュアル通りでないレイアウト・エッセイ(随筆)的・コラム(評論)的である」だの「この記事の正確さについては疑問が提出されているか、あるいは議論中」だの言われていて、思想や史観が大きく左右ものなのだろうが)。
 ……って、さしあたってのところ、吉本先生が説明しててくれるじゃん、この本のこの章で。

 ヴェイユの「労働者」という概念は都市(パリ近郊)ときりはなせないのはもちろんだが、「重工業」を頂点にした「工場」ときりはなすことができない。またヴェイユの「工場体験」というのは、組立作業や製造工業ときりはなせないことがわかる。いいかえればマルクスプルードンなど初期の社会主義者によって自明のように呼ばれた「労働者」は賃労働をやっている大なり小なり肉体労働のような単純作業にしたがうものという面から規定できる。

 なるほど。
 でも、この「労働者」という概念は現代では異なってしまってるという。先進的な資本主義社会、消費社会。消費の支出が全収入の50%を超え、全消費支出のうち50%以上が選択的な支出である社会。そのなかで「労働者」は半分以上が第三次産業(流通・サービス)に働いている社会。

現在わたしたちが古典的なレーニンスターリン型の「政治」運動や「革命」運動にたいする絶望を語るとすれば、古典的な「労働者」の概念が解体し、生きるのがあやういといった窮乏が解決されてしまうことで、その型の「政治」や「革命」の概念が終焉してしまったからだ。そこでは、ヴェイユがかんがえていた「労働者革命(プロレタリア革命)」も、マルクスがかんがえていた「プロレタリア革命」とおなじようにまったく現在では無意味になってしまった。

 だと。これはなんか、わけもわからず親父からよく聞かされていたことだ。既成左翼批判的な。まあ、その結果、俺は右翼少年になってしまったわけだけれども。……でもさ、ああ、いや、しかし、どうだろうね。まあ、今の日本が「生きるのがあやういといった窮乏」にものすごく多くの人間がさらされている、わけではないよ。でもね、1992年当時から比べたら、たぶんそうとうに近いんじゃないかとか、そうは思える。「貧困」の文字が踊るのは、そういうことだろう。NHKスペシャル朝日新聞のドル箱はそのあたりだろう、と。いや、古典的な「労働者」と現代人がどこまで一緒かというと、そうとうにあやしいし、革命へのリアリティもねえが、しかし、しかしだ、今現在この瞬間は、そこまで簡単に無意味と断じるような表現はそのまま飲み込めないようななにかがあると、少なくとも俺の喉はそうだという感じがある。さらにもうひとつ薄っぺらい印象を述べると、ある種のサービス業は精神をより酷使する単純作業を人間に課しているように見える。餃子の王将くら寿司、石と木を売ってこい、その他いろいろ。
 話を戻すと、それでも吉本さんはヴェイユの体験談を昔話とは言えない、という。

わたしは少なくともヴェイユが「工場体験」からつかみとった体験の感覚と精神の働きは、現在でも無効ではないとおもう。

 で、体験の感覚というのは、ほら、ヴェイユさんって基本病弱な頭痛持ちであって、そのあたりが思想面の根幹にあるようなところもあって、それで、工場で働くなかで身体性の発見みてえなのがあってうんたらと、そのあたりも興味深いが、それはまた別の話として、どういうことがあったかというと。

 五時四十五分、機械を止めたとき、心は真暗で、希望もなく、そのうえ、ぐだぐだに疲れて性も根もつきはてた状態だった。しかし、たまたま歌の好きなかまど係の少年にぶつかり、少年がにっこり笑い顔を見せてくれたり――倉庫係に出会ったり――着替え部屋で、いつもよりももっと陽気な冗談が交わされるのを聞いたり、もうそれだけでわたしにはよかった、――こういうほんのちょっとしたあたたかい友情があれば、わたしの心はよろこびに溢れ、しばらくの間は疲れも感じずにすむのだ。けれど、家に帰ると、また頭痛……

 ルノー工場にて。
 この経験によって何か得るところがあったか。どんなものであれ、また、何に対してであれ、わたしはどんな権利も持っていないのだという感じ(この気持ちをなくさないように注意すること)。精神的に自主独立の心を保持していられる能力、このようにいつまでとなく続く潜在的な屈辱の状態に生きながら、それでいて自分では決してはずかしめられた気持ちを感じずにいられる能力。そしてまた自由な瞬間や、人々との連帯の瞬間があれば、そのたびごとに、こういう瞬間こそ永遠につづくべきものだと信じて、のこりなく十分にそれを味わいつくせる能力。人生との直接的な接触……


 あー、しかし、ちょっと待ってくれ。うーん、その前に「考えなくなること」、「考えられなくなること」みたいな話が入るんだ。まあいいや、なんだろうね、もう急激に面倒くさくなってきたから終わらせようとしてるんだけど(←はい、これが人生の落伍者にありがちなパターン)、まあある種の、ありがちな、インテリが、労働者に身をやつしてみて、はじめて人生を知りました、みたいにも見えるか、それだな。でも、この、瞬間から永遠が出たところというのは、鈴木大拙とかもよく言ってて、ヴェイユ大拙を読んでいたと大拙も言ってたから、なんかあるのかもしれない。
 ほら、俺の気持ちもどっか行っちゃったから、というか、実際のところ、これを書き始めたのはもっと前なんだけど、もう賞味期限が切れてるし、でもせっかくだから、みたいなところもあるんだよ。だいたい、NHKスペシャルも、後からだし。それで、その間も、いろいろの労働だの人生だののニュースやら話やらを見聞きして、あれも、これもって、もう終わらないし。本当は、なんかあの、例の「木と石を売れ」研修の醜悪さみたいなものが、どこから出てくるのか、みたいなこと考えたかったんだけれども。まあ、俺がそれをずっと意識しているかぎり、またなにかに反応することもあるだろう。
 あ、それでシモーヌさんだけれども、ブラック企業でのそういう体験でね、まあひとつ人格を破壊されたような面はあるかもしれない。でも、同僚のなにげない善意、ちょっとした一言、ほほえみ、それで人間の尊厳を知った、みたいなことを言うわけだ。その一瞬、一瞬に「恩寵」があると。それで、そこから一気に「神」の存在へと跳躍したみたいで、そのあたりはなんかおもしれえ。まあ、厳しい労働体験を通じて真の友情を知りました。これからもブラック企業に搾取されながら頑張りたいです、みてえにはならんのな。なんというか、究極的に自分を否定していって、消滅させていきたい感じの人だもの。
 でもなんだろうね、「ここに無縁社会を防ぐポイントがあります」とか、そんなことはヴェイユも言わんだろうし、俺も言わん。ただ、言えてしまいそうな誘惑にかられるところが怖い。なぜならば俺は、コミュニケーションが怖いし、人間づきあいなどほとんどごめんだからだ。独立した自由人から共同体への回帰、みたいなのは、ちょっと嫌なんだ。ただ、俺には独立してやっていけるだけの、稼ぎという意味での能力に欠いているのだ。助け合いに関わりたくない、ただ、社会にとって有用な能力がないので、見返りも得られない、一人にさせておいてもらえない。が、しかし、ひょっとしたら工場労働的なものに向いている可能性もあるし、それがダメなら刑務所もあるだろう。刑務所のことを考えると気が休まる。俺がどれだけ刑務所を気にしているかは、右上の検索欄に「刑務所」と入れてボタンを押せばわかるだろう。俺が実際には、俺の想像する刑務所すら信じていないこともわかるだろう。

重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄 (ちくま学芸文庫)

重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄 (ちくま学芸文庫)

 で、『重力と恩寵』。なんだかわからんが、ひとつ押さえておくかと思って買って読んで、まああんまりわからんと。それでも、なにやら完全に仏教の本を読んでるような心持ちになったわけだ。そのくらいしか俺には手持ちの手がかりがない、というのもあるのだけれども。ただ、これはなんだ、今風に言えばツイートか? ツイートをだれかがまとめたようなもんだから、断片集みてえなもんだろ、ええ? だからまあ、吉本先生が「じぶんのかんがえをブレンド」しながらヴェイユの思想の流れを押さえてくれる『甦えるヴェイユ』はありがたい。ただ、順番としては、わけもわからず『重力』を先に読んだ方が、吉本さんのツッコミがわかりやすくなるようにも思う。さて。
 で、労働のところからちょっと引用して終わる。

 なにかの幸福のためではなく、必然に迫られて、――なにかに引かれてというのでなく、むりにも押しやられて、――今あるがままに自分の生存を保ちつづけるために、――努力すること、それはつねに奴隷であるということだ。
 この意味で、肉体労働者が奴隷であるということは、どうしようもない事実である。
 究極の目的なしの努力。
 それは、おそろしい、――あるいは、何よりも美しい、――もしそれが、終わりなく決定的なものであるとすれば、美しいものだけが、今あるものに満ちたりた思いおぼえさせてくれるのである。
 労働者たちは、パンよりも詩を必要とする。その生活が詩となることを必要としている。永遠からさしこむ光を必要としているのだ。
 ただ宗教だけが、この詩の源泉となることができる。
 宗教ではなく、革命こそが、民衆のアヘンである。
 この詩が奪われていることこそ、あらゆる形での道徳的退廃の理由だといっていい。

 奴隷の状況とは、永遠からさしこむ光もなく、詩もなく、宗教もない労働である。
 永遠よりの光によって、生きる理由だとか働く理由だとかいったものでなく、そうした理由を求めずにすませられるほどの充実が与えられますように。
 それがなければ、強制と利得だけが、労働へとかりたてる刺激剤になってしまう。強制には、民衆の抑圧ということが含まれている。利得には、民衆の堕落が含まれている。

 民衆に関する詩は、どんなものであろうと、そこに疲れ、疲れからくる飢えと渇きがなければ、真正なものとはいえない。

 ……いや、なんだ、なんか僭越ながら、俺はヴェイユさんと仲良くなれ……るとはいわんが、もし彼女がブログを書いていたら、間違いなく購読者になるだろうし、Twitterをやっていたらいの一番にフォローするだろう。mixiFacebookはやらないが。まあ、言うことが大仰で、革命だなんだと言って、一方でやけに宗教じみている。ヴェイユは頭痛になやまされ、俺はブラキシズムもといSASや慢性蕁麻疹になやまされている。いや、それは比べられないか。まあともかく、断片でなく、とくに労働のところのまとまったものを読みたいとおもった。
 というか、俺はぜんぜん現代の思想だとか、考え方とかに辿りつかないな。おそらく、俺の読みたいものなど、現在では無意味になってしまったものばかりだ。ただ、現在にとって意味のあるものというのは、あまり俺の好きなものではないのだ。というか、難しくてわけがわからない。今のプロレスを観てて、スリングブレイドがどんな技なのかさっぱりわからないが、昭和プロレスなら見ていられるというか、現代ボクシングの高度な駆け引きより、具志堅用高の殴り合いの方が面白いというか、なんの話だ、まあ、どうでもいい。おしまい。

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