及川サトルの実況が聞けないということ、あるいはじわじわと世界が損なわれていく感覚について(これが老いていくということか?)


 大レースの日。後半の8レースとかの発走前、プツッと場内アナウンスのマイクが入り、そこからあのアナウンサーの語りが始まる。「開催は本日3日目、メーンレースはビッグレース……」。俺には、なにか待ちに待ったものが始まったという高揚感に包まれる。最高の気分だ。大一番、あのアナウンサーの実況が始まる、場内は拍手喝采に湧く、馬たちがドッと飛びだして、馬群が長くなる、直線、連呼、連呼、そしてチャンピオンが圧勝する。実況の余韻を残して競馬場から帰る。たとえ財布がはずれ馬券でいっぱいになっていたって、悪い気はしない。
 俺の昔話である。
 今風にいえばニートとして大井に足繁く通っていたときのことだ。その場内に流れていたのはいつもあのアナウンサー、及川サトル(及川暁)だった。事実ではない。ただ、及川サトルの印象しかない。いや、そのころは及川という名前すら知らなかった。
 及川の実況は特別だった。なにか、祝祭のような感じがした。後に、インターネットというものに繋がり、あの実況について好き嫌いはあれ一種の名物アナであることを知った。そうだ、俺はあのセクシーディナーの実況だって生で聞いていたのだぜ
 さらにインターネットに繋がり、ネット経由で南関東四競馬をすることも増えた。俺はニートでなく低賃金労働者になり、競馬場に行くことも減った。幸い、ネット経由の実況も場内のものなので、及川サトルの名調子を聞くこともできた。
 が、だんだんとその機会が減り、とうとうほとんどというか、まったく聞けなくなった。それにはなんとなく気づいていた。去年のことだ。ただ、俺はやはりデジタルネイティブの世代でもなく、それを調べようという気にはならなかった。ただ、及川のそれに比べると、まるでお通夜のように感じられる実況が始まるたびに、けっこう落胆するばかりだった。「けっこう」? いや、そのたびに、かなり。
 ふと、調べてみて、知りたくもない事情を知った。

 所属会社の耳目社と揉めて懲戒解雇、裁判で懲戒は撤回されるも復職はなく、今はどこでもアナウンスする機会がないという。
 まったく、言葉もない。絶望的だ。俺は少し思いうかべていた実況しない理由といえば、たとえば後進に座を譲る引退だとか、あるいは病気とかだった。ある意味、それよりも知りたくないような理由。会社が悪いのか、及川サトルに落ち度があったのか、それにはそれほど興味がない。労働審判とやらの結果がすべてだろう。なによりも、まだ、及川サトルは実況したいのだろうし、実況できる状態にあるのに、実況できない、その事実。まったく、嫌になる。
 失われたものは大きい。
 再度言うが、俺の話だ。人によってはたかだか実況だろうと、そう言うだろう。それでけっこうだ。おりこうさんたちは競争社会や契約社会の現状を追認しておればいい。俺は、ひどくつまらない。俺の競馬は多いに損なわれた。フリオーソを応援する気持ちもなくなるくらいに。関係ない? 俺と南関とフリオーソ、坊主と袈裟くらいに関係ある。俺は坊主と袈裟の関係性の世界に生きている。
 野球のストライク・ボール表記もSBO順からBSO順に変更されていくそうだ。国際化、けっこうなことだ。やがて、SBO順に慣れ親しんだ人間は死んでいくし、ずっとBSO順に馴染んだ世代が大きくなれば、そこに世界との齟齬がない。いい話だ。
 だが、俺には関係ない。知った話が、クソが。ああ、こうやって、世界が損なわれていく、その怒りと感傷こそが、歳をとるということなのか。手足をもがれ、屈辱と怒りの中で、なにもできずに死んでいくということ。いや、しかし口は動くぞ。だからこうやって罵倒してやる、唾吐きかけてやる、それをここに刻み込んで転がしておいてやる。