喉元過ぎれば髪も染まって原発は止まらない

 「もし今、大地震が起きたら嫌だな」と思うときが誰にでもあるだろう。トイレで大きい方の用を足しているときや、お風呂で髪を洗っているとき。自慰中なんてのも間抜けなことになりかねないし、セックス中というのも困ったものかもしれない。しかし、私が一番「今、地震が……」と思うのは、髪を染めている間である。頭にブリーチを塗りたくって、サランラップを巻いているその時だ。もしもそこで大地震が起きて、何とか逃げおおせたとしよう。しかし、頭にはべっとりと薬剤。しかし、水が貴重な避難所では「頭、流させてもらえませんか?」とは、とてもじゃないが言えないであろう。ああ、恐ろしい。
 こんな想像は、実際に大震災を体験した人にとっては笑止だろうし、頭に来るかも知れない。しかし、だ。大きな悲劇の他に、こういう中小零細の悲劇だって存在するんじゃなかろうかと想像する次第。はっきり言って、地震が起きてすぐ死んでしまうという、ある意味ありがちな想像こそ一番できないもの。いずれにせよ「大地震は実在する」のだ。これは、『ニュークリア・エイジ』(ASIN:4167218178ティム・オブライエン著、村上春樹訳)の「爆弾は実在する」に近いものかもしれない。私はこの本を読みながら核爆弾や戦争ではなく、地震のことを思い浮かべたような気がする。
 ……と、このエントリのはじめからこの上の行まで引用である。俺が俺の日記から引用した。俺がこれを書いたのは3.11のちょうど6年前の3日後のことである。

 俺には地震妄想癖があって、会社帰りの山手隧道、スーパーの買い物袋片手に思うのは、「今、大地震が来てトンネルの入口と出口がふさがれた場合、俺はこの買い物でどれだけ生き残ることができるのか?」というまことにしょーもないことであって、「今日は生野菜があるので水分は大丈夫か」とか「ポン酢は水分だが飲み物としては厳しいか」とか「マヨネーズはたしかかなり優秀な生き残りアイテムではなかったか」とか「いざとなったらこの生肉を食うことになるのか」とか「ビールは利尿効果があって喉も渇くが飲まないよりマシなのか」とか「刺身は腐るから、食うタイミングが重要だ」とか「俺はスーパーで酒以外の飲料を買わないから、たまにはお茶などの類も買うべきなのだろうか」などということが頭を駆けめぐってたいへんなことになっているのだけれど、みなさんにおかれましてはいかがでしょうか、俺はたぶん真っ先にコンクリに頭ぶつかって死ぬと思う。
 ……と、このトンネルの妄想を書いたのも2008年5月のことだ。

 いずれも、東日本大震災の影響ではない。かといって、それ以前に大きな地震に遭ったこともない。俺が体感した最大の地震は、3.11の震度5強だ。だから、上に書いたものは、ただの俺の想像だ。想像に過ぎない。想像して、妄想して、不安を抱きながら、とくに地震に対する備えをするわけでもなかった。いちいち地震のことを気にしていたら、髪を染められない。髪を切るのもあぶない。なにもできないとは言わないが、そこまで気にして生きていられない。
 でも、「地震は実在する」。思い知ったばかりのことだ。それなのに、俺はついさっき髪を染めた。「今、大地震に来られたらまずいな」と思いながら、髪を染めた。水の汲み置きすらしなかった。たぶん、来ないだろう。もう、会社に、避難用具一式もって通うのもやめている。そうだ、とりあえずは、大丈夫だ、問題ない。
 ……言うまでもないが、問題はある。大丈夫な根拠がなにもない。逆に、地震がくる根拠はある。首都圏直下大地震も、東海地震もずっと言われてきたものだし、大きな余震の可能性もあれば、地震の連動というものもあるらしい。
 ただ、その予想というか、予測というのは、ひどく大雑把なものでしかありえず、今のところ大雑把なものであるということが、科学的に誠実(科学に誠実さがあるのだろうか?)といえるようなものだろう。ただ、大雑把に言ってあるらしい。そちらの方が確からしい。
 リスクとリターン、一秒ごとに行われるギャンブル。チャーリー・シーン先生じゃなくったって強制参加。俺はさっき勝った。まったく。
 まったく、話は飛ぶが、俺が髪を染めることを不安に思いながらも実行したこと。ただちに浜岡原発を止めないこと。放射線と人が暮らせる範囲の問題。あるいは、それら問題と俺の心理、誰かの心理、多くの人間の心理がなんらかの決定を下すこと。それらについて。
 ……それらについて、どうも途方にくれてしまう。この世界はパリミュチュエル方式でオッズが算出されてもいないし、出馬表ですら定かでない。ブックメーカーみたいな人間はいるかもしれないが、そいつがきちんと払い戻しの能力を持っているのかもわからない。そもそも自然に賭場のルールは通用しない。
 それでも、誰もかも一秒ごとに賭けていて、おおよそ勝ち続けているのだけれど、いつ負けるかはわからない。もしも死ぬこと自体を負けというのならば、誰もが最後に負けることがわかっているギャンブラーともいえる。だからといって、今すぐ身ぐるみ剥がされたいやつはいなし、それに見合ったリターンが得られる賭けの現場なんてめったにありはしない。まったく、また一秒、また一秒、また一秒……。