猿を逃がそうとして猫を放つ

猿を檻から出そうとする


 どことは言えないが、けっこうな森の中の話だ。

 森の中に猿の檻があった。広く、明るい森の中で、猿の檻ひとつあって、中に猿一匹いる。

 猿は何万回通ったであろう山とも呼べない山をくるくるくるくる回って、こちらの存在にはまるで気づかない。しばらくして一息ついた猿、こちらを向いて座る。俺はカメラを構えてシャッターを切る。

 何枚かシャッターを切ったあと、急に猿が俺の存在に気づいた。檻に飛びかかって吠える。檻の中を駆けまわる。これには驚いた。だってお前、俺のこと見てたじゃないか。

 猿の檻を後にしてしばらく歩くと社があった。

 俺は賽銭を投げ入れ、「さっきのあの猿がなにかいい形で自由になれないものでしょうか」と祈った。二礼二拍手一礼で。

猫が放たれた

 翌日の朝の話だ。朝、ゴミ捨てに行った帰り、二匹の猫が連れ立って歩いているのを見た。一匹は白と黒の大柄なやつで、たまに見かける。問題はもう一匹である。
 もう一匹のそいつ、茶色でチビの猫。そいつは、ほぼ毎日のように見かける猫だ。場所はどこかといえば、アパートの向こう側の棟の一室の窓辺である。俺が会社に行くとき、そして帰るとき、いつも窓の向こうにいる。大体は座って外を見ているが、繰返し繰返しせまい窓際の端から端まで行ったりきたりしていることもある。帰りには部屋の明かりがつき、飼い主の気配がすることもある。
 俺は家の中で猫を飼うことを否定しないし、一人暮らしの人間が猫を飼うことも否定しはしない。しかしどうも、俺も間取りを知っているワンルームの狭い部屋で、遊び相手もおらずに一匹、この条件が合わさるとなにか不憫なような気がしてならなかったのも事実だ。

 して、その猫が、紛れもなくその猫が、外を歩いていたのだ。大柄の白と黒の猫のあとを、とてとて歩いてついていく。大柄の白と黒のやつは、たまに立ち止まって振り返る。チビが近づくと、大柄の白と黒のやつは先に進み、チビはまたとてとて追いつこうとする。大柄の白と黒のやつは先に行き、また振り返る。チビを待っているようには見えない。なんかよく知らないのがついてきて、どうしていいか困っているように見えた。
 その後、会社に行く時間がきて、俺は部屋をあとにした。いつも部屋の窓際には、やっぱりあの小さいのはいない。下に降りると、うーうー鳴き声が聞こえる。猫の集会である。

 さっきの白と黒のやつに加えて、真っ黒な黒猫が加わっている。このあたりにはあと、相当に巨体(デブではない)の白猫と、人なつっこい三毛猫、足に擦り寄って来る茶色いやつと、上品な猫がいる。それはともかく、今はこの三匹であって、チビも加わっている。新入りの挨拶なのかなんなのか、議題はよくわからない。急に白と黒のやつが抜き足差し足で草の中に入って行ってしまい、事情を聞くこともできなかった。

祈りの代償


 以上、俺が猿を逃がそうとして猫を放ってしまった話である。ありのままを語っているのは、写真の撮影日時など確認していただければわかるだろう。ともかく、失敗談と言っていい。
 いや、逃げてしまったかどうかはわからない。チビの飼い主が外猫にしようとした可能性もある。このあたりは自動車が入ってこれず、バイクや自転車もたいして通らない。住民も古くからの比較的上品な人か、他人に無関心な独り者ばかりで、取立て猫の害を騒ぐ人もいなそうだ。病気や怪我の危険性はあるにしても、それなりに外猫に恵まれた環境ではある。チビの成長具合や様子を見て、飼い主が放った可能性はある。首輪をしていないのは気になるが。
 と、そういうことではないのだ。たとえそうであったとしても、失敗なのだ。俺は二拍手分の下手を打った。これは紛れもない事実だ。その結果、いったん外に出てしまったチビが、似たようなドアの並ぶアパートの自分の部屋に戻れなくなってしまったかもしれない。
 猫にとってどちらがいい、という話でもない。ともかく、俺は祈り、それがある形で叶えられてしまったということだ。俺が祈ることで、なにかを変えてしまった。猿がどうなったのかは知る由もない。ともかく、俺は失敗してしまった。祈りが思うようにはたらくことなんてないのだ。繰り返すが、結果の善し悪しではない。

 なにかに祈るときはなにかを祈ってはいけないし、なにかを祈るときはなにかに祈ってはいけない。祈るときはただ祈るように祈るべきである。

おしまい

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熊を放つ〈上〉 (中公文庫)

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熊を放つ〈下〉 (中公文庫)

熊を放つ〈下〉 (中公文庫)

猫を放つ、猿を放つ、熊を放つ。「放つ」は「でつ」のようになにかの顔に見ないか?