俺は電子書籍を自由自在に泳げるようになりたい

 電子書籍と俺。俺と電子書籍。今のところ、あまり仲が良いとはいえない。俺には合わないと思う。だからといって、俺は電子書籍否定派でもなんでもない。いずれ、書籍の類のほとんどは電子書籍に取って代わられるだろうし、紙の書物は嗜好品のようになるだろう。
 ひとつに、デバイスやシステムの進化があり、もうひとつに人間の進化もある。人間の進化、という表現は違っているか。とりまく環境の変化によって、電子に慣れていくということだ。今、80歳の人間より50歳の人間、50歳の人間より30歳の人間、そして今生まれたガキ。デジタルへの親和性は高まり続けるだろう。
 できれば30代の俺も、電子書籍を自由自在に泳げるようになりたい。これは本心だ。だから、iPhoneというやや不適格かもしれない端末で、青空文庫や有償PDF書籍を試したりもした。しかし、これは上のリンク先にもあるが"読了へのプレッシャーがない"というのがしっくりくるか、すっかり忘れてしまうのだ。もとより一直線で読了することが少なく、買い漁って数ページ〜数十ページだけ読んで放っておいて、そんな本が何冊も何冊もあって、あるときふと手にとって読み切る、というようなスタイル。これが電子書籍になると、物体として見えないから意識から散逸してしまう。霧散といった方がいいか。
 また、"思考を助ける「余白への書き込み」ができない"というのもよくわかる。俺が本に書き込みをするようになったのは5年くらい前からだが、これがないというのはおもしろくない。「線を引いたり、一言二言メモするのに何の意味が?」と言われると辛いが、やはり違う。読み返したときも違う。読み返したときにむしろ線のないところに目がいくようなところもある。そしてさらに、どの本のどの箇所にそれが書いてあったかという記憶の補助……。
 この「記憶の補助」というのはいかにも本来不必要だ。これが紙の本の最大の弱点だ。俺はGoogleの検索窓に知りたい単語を叩き込んで、自分が読んだすべての本から全文検索したいのだ。本棚にも整理されず、100円ショップの袋だのプラスチック・ボックスだのに詰めこまれた本をひっくり返して、当該のページを探す不毛さ。終わってみれば、よけいに本は無茶苦茶になる。俺は本棚のある部屋に住むだけの金がない。
 じゃあ、紙で読んで、読み終わったらぶった切って「自炊」して、OCRで検索可能にすればいいじゃん。いや、まったくそうだ、その通りだ。俺がローマの貴族なら奴隷にやらせる。だが、日本国平民の俺にとって、その手間やコストを考えると、そこまでしてという気にもなる。だったら、この世の本がすべて紙と電子書籍で読めるようになればいいのだが、まったくそのシステムを屏風から出してくれということだろう。
 ただ、いずれはあらゆる電子化可能なものは電子情報になる。そう信じたい。その暁には、われわれの身体も物理的に改変され、よりアクセス容易になっていくだろう。電脳化の夢想だ。そうであれば、そのとき80歳だろうとも肉体のなじみなんてものは通り越して、俺は泳げるようになるだろう。泳いでどこに行くわけでもないが、そう願いたいものだ。