屋台による永遠~平塚の七夕へ行く~


 梅雨明け南関東

 横浜から平塚へ。おれは過去、平塚の七夕に行ったことがあるような気がしたのである。ただ、気がするだけで、行っていないような気もする。よくわからない。よくわからないが、行ってみればいいと思ったのでそうした。

 鎌倉時代のおれは辻堂くらいまで行動範囲であったような気はするし、平塚も語尾に「べー」とか「だべ」とかやたらにつくような範囲であると思う。

 なにか地元民のようなことを言っておいてなんだが、藤沢、辻堂、茅ヶ崎、平塚。おれは長いこと辻堂と茅ヶ崎の区別がついていなかった。「茅ヶ崎は市であって藤沢とは共存しえないから、辻堂より向こうが茅ヶ崎である」などと毎晩100回唱えることで、どうにか覚えることができた。

 なにごとも反復と努力は大切である。おれは反復と努力をしたことがない。

 ともかく、平塚である。平塚駅には簡易SUICA読み取り機の臨時改札など設置されていた。駅の写真などがないのは、すばらしいブラックラピッドのストラップを会社に置き忘れ、ハンドストラップ一本で来たからである。普通のストラップもどこかにやってしまった。

 午後の二時だったか三時だったか。今年はもろもろご存知の事情で午後七時までの祭りである。遅く行っても仕方ないと、このように真昼間である。

 当初は中止が予定されていたと思う。規模縮小、時間短縮とはいえ、これだけの人出があるイベントを中止するのはたいへんなことだろう。

 もっとも、神奈川県警が東北に派遣されているという具体的な話も聞いたし、いろいろわかってはいるのだが。ただ、これだけの人間を見るとね。

 まずは商店街を抜けていく。飲食店などは店舗の前にテーブルを置いて、本業と関係在るものやないものを売る。飲食店以外も、なにか売ったり、売らなかったり、縁がないとあきらめていたりである(たとえば、不動産屋が「土地の当たるくじ」をやるわけにはいくまい)。

 写真には撮れないが、寿町付近のヤクザでもここまでヤクザらしくはないというような飲み屋系の従業員だか客だかわからないような方々がなにかかき氷とか売ろうとしていたりもしたわけだが。あとは、普段の空き地だか駐車場だかを利用したお化け屋敷などあったりして。このような大掛かりな祭りの出店ははじめてみたかもしれず。

 あとは、屋台、屋台、屋台、屋台のスプロール。

 そうだ、初詣かなにかならば、とりあえず本殿みたいなところでお賽銭みたいなものを投げたりすればよいが、七夕ではどこに本尊があるのかわからない。中心がないのだ。

 いや、縁日といえばそういうものだろうか。ただ、お神輿が出たり、盆踊ったりするし、中心はあろう。平塚はただぼんぼってるだけである。ぼんぼってる人を応援したい。

 客層はというと、多岐に渡るかといえばそうでもない。比較的若い。この人出、混雑、中高年にはきびしい。それに、レンズ沼にはまったバズーカ三脚系老人が三脚を構えるスペースが無い。いや、実際には万難を排してやってるじいさんとかはいただろうが。

 まあ、若いのである。そしてなおかつヤンキー寄りといっていい。かっこいいワンポイントのタトゥー入りの若いお父さんお母さん小さな子供みたいな取り合わせが多かったように見えた。勘違いかもしれないが。

 あと、小学生、中学生などはしまむら系のなにかを感じた。偏見かもしれないが。

 して、ともかく、人、人、人、であって、屋台、屋台、屋台である。はっきりいってこの規模はすごい。屋台という屋台がここにはある、という感じである。途方もなく広い縁日、屋台、これが平塚の七夕であるか。

 ふだん歩けぬ道など歩いてみたりもするが(行った先は歩行者天国的な行き止まりであって、徒労であった)。

 ところで、おれはこの屋台世界でなにをするべきか。そうだ、おれは絶賛ダイエット中である。正直言って、食べるものがないといえる。

 が、リンゴ飴は食った。なぜならばおれは、リンゴ飴を食ったことがなかったからだ。おれはクンニの丁寧さで飴を溶かし、しまいに面倒になって食らいついて、種まで食った。

 して、昭和文化は途絶えず、か。たとえば、射的について余裕で平成10年代生まれの人間がリアルに体験するのである。これはやばい。

 やばいよね。いったい、いつまで日本人は屋台のお好み焼きを、たこ焼きを、わたあめを、金魚すくいを食うのか(金魚すくいは食わないが)。

 そして、七夕の短冊に願いを書くのか(きみ、Zガンダムパイロットにはならないほうがいい。いや、今の子は劇場版がベースか?)

 屋台大通りから駅へ。

 行きには通らなかった道、これがひょっとしたらメーンストリートだったか。






 シエ。

 淀気味。

 さて、帰るか。

 もしも来年があるのならば、シグマの超広角とミノルタの超旧式100マクロなどではなく、使い勝手のいい明るい単焦点レンズをぶら下げてきたいものである。短冊にもそう書いた。というのは嘘だが。

 短冊には、「世界人類が遊んで暮らせるようになりますように」と書いた。就活の成功を願ってるやつの隣に吊るした。

 おしまい。