折口信夫の『死者の書』読んだらテンションあがった!

 折口信夫マジすげえんだぜ、なにがすげえって、よくわかんねえけどすげえんだぜ。おれはまだ『死者の書』しか読んでないけど、マジでやられちゃったんだぜ。折口信夫すげえって吉本隆明と赤坂憲雄が言ってたの読んだの3.11直後で、そのあと柳田國男をちょっと読んだりしてて、それで最近折口かなって気になったんだけど、まったくよかったぜ。はっきり言ってここ数日は頭の中が『死者の書』でいっぱいなんだぜ。それで、この文庫の表紙の写真を見てはため息をついて「二上山に行きたい……」とかつぶやいてる。この表紙の写真はすばらしくて、山の手前、水の向こうに、民家と電線があって、それがすごくいいんだぜ。たまらん。

死者の書・身毒丸 (中公文庫)

 まあ、青空文庫にもあるらしいが、おれは電子書籍みたいなのさっぱり読めない旧人類だから関係ないし、だいたいこの黒丸尚以来の衝撃のルビプレイは紙の本でこそだぜとか思うのだぜ(おれがたまたま買ったのは中公文庫版で、他もかっこいいカタカナルビなのかは知らないぜ)。それでまあ、冒頭はこんな具合なんだぜ。

彼の人の眠りは、徐かに覚めて行った。まつ黒い夜の中に、更に冷え圧するものゝ澱んでゐるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。
した した した。耳に伝ふやうに来るのは、水の垂れる音か。たゞ凍りつくやうな暗闇の中で、おのづと睫と睫とが離れて来る。
膝が、肱が、徐ろに埋れていた感覚をとり戻して来るらしく、彼の人の頭に響いて居るもの――。全身にこはゞつた筋が、僅かな響きを立てゝ、掌・足の裏に到るまで、ひきつを起しかけてゐるのだ。

 なんかいいじゃねえか。いいよ、大津皇子が死んでるのによみがえってるところだぜ。SFだぜ、ファンタジーだぜ。執着なのだぜ。まあそのあたりは本を読むべきなのだぜ。
 それはそうと、なぜかおれは情景の描写みたいなものに惹かれるのだぜ。四章の、当麻の語り部の姥が神憑りになったときのこれとかだぜ。

ひさかたの 天二上(アメフタカミ)に、
我(ア)が登り 見れば、
とぶとりの 明日香
ふる里の 神無備山隠(カムナビゴモ)り、
家どころ 多(サハ)に見え、
豊(ユタ)にし 屋庭(ヤニハ)は見ゆ。
弥彼方(イヤヲチ)に 見ゆる家群(イヘムラ)
藤原の 朝臣(アソ)が宿。

 あるいは、六章のこのあたりの地形と地名を淡々と述べているところとか。

雨の後の水気の、立つて居る大和の野は、すつかり澄みきつて、若昼のきらきらしい景色になつて居る。左手の目の下に、集中して見える丘陵は傍岡で、ほのぼのと北へ流れて行くのが、葛城川だ。平原の真中に、旅笠を伏せたやうに見える遠い小山は、耳無の山であつた。其右に……

 あるいは十六章の冒頭。

山の躑躅の色は、様々ある。一つ色のものだけが、一時に咲き出して、一時に萎む。さうして、凡一月は、後から後から替つた色のが匂ひ出て、禿げた岩も、一冬のうら枯れをとり返さぬ柴木山も、若夏の青雲の下に、はでなかざしをつける。其間に、藤の短い花房が、白く又紫に垂れて、老い木の幹の高さを、せつなく、寂しく見せる。下草に交つて、馬酔木が雪のように咲いても、花めいた心を、誰に起させることもなしに、過ぎるのがあわれである。
もう此頃になると、山は厭はしいほど緑に埋れ、谷は深々と、繁りに隠されてしまふ。郭公は早く鳴き嗄らし、時鳥が替つて、日も夜も鳴く。
草の花が、どつと怒濤の寄せるやうに咲き出して、山全体が花原見たやうになつて行く。里の麦は刈り急がれ、田の原は一様に青みわたつて、もうこんなに伸びたか、と驚くほどになる。家の庭苑(ソノ)にも、立ち替り咲き替つて、栽ゑ木、草花が、何処まで盛り続けるかと思はれる。だが其も一盛りで、坪はひそまり返つたやうな時が来る。池には葦が伸び、蒲が秀(ホ)き、藺(ヰ)が抽んでゝ来る。遅々として、併し忘れた頃に、俄かに伸し上るやうに育つのは、蓮の葉であつた。

 あるいは、……ってきりがねえからやめるけど、なんだろう、すげえ、こう、郷愁のようなもんが湧いてくるのよ。ありもしねえ追憶というか、そういうもんだぜ。まあ、まったくなんかこう、「そうだ、京都に行こう」じゃねえけど、奈良あたり行って、ちょっと新幹線乗ってまほろばの里だの万葉の里だの行ってくるか、みてえな、なんか定年退職後の中高年の趣味そのものだと思うんだけど、まったく、ただおれはその真っ只中にあって、1mmも否定するところじゃねえっていう自覚がある。
 さらに言えば、おれがこのくにに愛国心だか愛郷心だかわからんが、そういうところを持つとすると、このくらいまでさかのぼったところにあるといっていい。あるいは、もっともっと昔だ。前にも書いたが、こういうスケールだ。

 ここのところ、天皇というものが気になっている。吉本隆明の『共同幻想論』における「起源論」を読んでのことだ。この国の共同幻想のありよう、天皇というもの。ともすれば、戦後民主主義の中で産まれ育った自分などは「現在の象徴天皇制が古代よりのあり方である」などと言われればそんなものかと思ってしまうが、それにとどまらないスケールでの話もありえる。

日本列島に人間が住み始めたのは別に天皇制から始まるわけじゃなくて、それよりはるか以前、数千年はおろか数万年前から住んでいた。もちろん原始社会の段階で村落レヴェル以上にはいかないような存在として、日本列島に分布していたかもしれないわけです。その住民たちは、数万年前から自分たちの祭りの仕方をもっていたと思うんです。

 というあたり。天皇家が一豪族から出てきたのか、あるいは騎馬民族渡来説したのかわからないが、いずれにせよ、その後の天皇制のあり方の中にはそれ以前のものがあるだろうし、なければ成り立ちえないということ。鈴木大拙が、よく仏教について「たしかにインド生まれで中国経由のものだが、日本人にそれを受け取る土壌があったのだ」ということを言うけれども、なにかそういうところはあるだろう。
 そんなわけで、大和朝廷成立以前の、邪馬台国、もっと前の日本(と後に呼ばれる場所)に住んでいた人間のことが気になり始めているのだ。そこに、今のわれわれの社会や政治のもとになり、あるいは変わらぬなにかがあるのではないか。

大君の爪噛む少女について - 関内関外日記(跡地)

 さらにもっとさかのぼって、いったいアフリカとかいうところに現れた遠い遠い先祖のこと。場合によっては交雑したかもしれないネアンデルタールのことまで含んでもいい。まあ、そこまでいくとさすがに日本という土地から離れてしまうが、まあそのあと何から逃げてきたのか、追い求めたのかわからんが、東の果てのどん詰まりまで来てしまった連中と、それが住み着いたこの島国について、なんらかの愛着があるといっていい。皇紀は二千六百年どころじゃねえんだぜ、というレベルだぜ。
 まあそれはちょっと行き過ぎとしても、すげえ昔のあたりだぜ。それで、そういえば、この『死者の書』の舞台となっている時代はといえば、唐の文化が押し寄せてくるところであって、まったく時代の変わり目ということでもあるのだぜ。おれはあまり日本史に詳しくないが、藤原仲麻呂大伴家持が重要な役回りであって、対話のシーンがあったりするところとか、なにかあるのだと思うぜ。あと、書字文化の広まりとともに、古来よりの語り部が消えて行くあたりとか。それでもまだ、山には乙事主がいて、役行者がワープしまくってる。
 それになによりも、大津皇子アメノワカヒコであり山越の阿弥陀なのであって、まったく神仏習合という四字だとちと味気ないけれども、そこのところのダイナミックなところが描かれているといってもいいのかもしれないし、まあ違うかもしれないんだけれども、それもしびれるところがあるよなって。それでまあ、なにかこう、物語の幕切れとかの、なにかこう寂光に包まれるような雰囲気、これが黄金時代の終わりのようであって、まったくおれはやられてしまうのだぜ(ダンセイニ卿の『魔法使いの弟子』を思い浮かべるのだぜ)。そして、すばらしい右京藤原の郎女はその中に消えていくのだ。ああ、姫さま、まったくすばらしい姫さまについては、川本喜八郎人形アニメーションで映画化した方の感想に書くことにしようか、ああ、おしまい。

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死者の書・身毒丸 (中公文庫)

死者の書・身毒丸 (中公文庫)

VOXXX

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……「死者の書」で思い浮かぶ曲といえば「エジソン電」に他ならない。

……この『イティハーサ』で好きな絵としてあげているあたりを見るに、おれの趣味は一貫している。