徳間理事長じゃないっすか!〜映画『コクリコ坂から』の感想〜

 レイトショーのブルク13はみなとみらい、桜木町駅徒歩1分にして『コクリコ坂から』を観るに絶好の映画館かもしらん、100席の小スクリーンもまたよしと思う。

徳間理事長の思い出

 さて、それにしてもタイトルのとおりである。主人公の話をすっ飛ばして学校の理事長の話をしたいのである。学校の理事長は東京の出版社の社長であって、名前を徳丸という。徳丸の出版社では「アサヒ芸聞」なる週刊誌を出しているようであって、徳丸社長はといえばなにやら豪快で話のわかりそうなおっさんなのである。徳間理事長じゃないっすか!

 って、Wikipediaにも『コクリコ坂』の記述があるが、今読んだ。まあともかく、見た目も名前も徳間理事長なのである。そう、何度か書いてきたので隠すこともないが、俺はこの人が理事長だった中学・高校の出だ。ちなみに、俺はこの名前を<とくま・こうかい>と読む。
 元は校長だったがリクルート事件に絡んでいたとかで理事長になったとかで(あくまで学校内の噂)、あまり見たことはない。が、入学式や卒業式の重要な行事では出てきて話をする。なんというか、おもしろいこと言うおっさんという印象がある。学校主催の講演会などあると、OBや生徒の親の申し込みが殺到して、すぐ締切になった。
 逸話もいろいろあった。古くからいる教師によれば、公立に入れない最低辺の生徒を拾うだけのダメ私学(ほんとうの意味での「Fラン」)だった学校に乗り込むと、使い道もなく溜め込んでいた内部留保を使い果たして海洋教育センターだの映画のような記念講堂だのをぶっ立てたという。その結果、俺が在籍していたころには一応は公立よりマシな中高一貫校扱いはされるくらいになっていたし、今ではもう少しランクアップしているかもしれない。
 さて、姿を見せない理事長だったが、学校内にいくらか徳間書店の影響はあった。なにせ図書館に「アニメージュ」はもとより、「テクノポリス」まであったくらいだ。いくら男子校とはいえ、という話である。ちなみに、その頃は今ほどアニメやエロゲーが市民権……というとなんだけれども、それほど強まっていなかったころだったぜ。まあ、さすがに「アサヒ芸能」はなかったか。
 さらにはジブリだ。

当時はまだ一般的には無名だった宮崎駿を「大物」と認めて、『風の谷のナウシカ』を製作するチャンスを与えた。さらに、スタジオジブリ設立にも出資し、その後も宮崎駿高畑勲の作品制作を支援した。しかし、現場に口を出すことはなかったという。

 と、あるように、自分の名前をつけた記念講堂にジブリの新作を持ってきてくれたのである。『オン・ユア・マーク』は「関係者以外初の公開」とか言われていたし、『紅の豚』もすぐに見せてくれた。授業中の話であって、感想文なども書かされたものだが、まあ得した気分であった。
 
 ……などという記憶があって、なにこう、いきなり主役を食って徳丸理事長に食いついてしまったわけである。ネタバレになるので書かないが、理事長の出した結論というのも、いかにもという風で満足だった。脚本の宮崎駿徳間康快をどう見ていたか、どんな思いを抱いていたかなど、そのあたりはよく知らないが、この映画が答えなのかもしれないなどと感じもした。まあ、監督のアレンジかもしれないが。
 あと、しょうもないくらい微細な話だが、社長室にいろいろ置いてあった本の背に『情況への発言』と『少年愛の美学』とあった。前者は父の吉本本棚にあったもので、後者は俺が文庫本で買ってものだ。調べてみたら徳間書店刊行だった。
wikipedia:吉本隆明

『情況への発言』(徳間書店, 1968年)

wikipedia:稲垣足穂

少年愛の美学徳間書店/1968年5月

 時代のズレはともかくとして、このあたりはきちんとしていると言えるか。あと、もっとすごく関係ないけど、『コクリコ坂』のドキュメンタリみたいなの見ていたら、鈴木プロデューサーの背景の本棚に俺の大好きな『世界の名著〈第42〉プルードン,バクーニン,クロポトキン』 (1967年)があったっけ。

登場人物と背景について

 ちょっと前にこの話題を読んでいて、否が応にも気にして見てしまった、登場人物と背景についてである。ちなみに俺はアニメをがっつり見始めたのが一昨年からなので、ぜんぜん知識もないし、ここに動員できるような映像芸術その他の戦力もないが。
借りぐらしのアリエッティ [DVD]
 と、その前に一つ言っておきたいことがある。俺はいまいち最近の「ジブリの顔」違和感がある。宮崎駿のものでない「ジブリの顔」というか。たとえば、『借りぐらしのアリエッティ』、俺はけっこう好もしく思っているのだけれども、アリエッティの顔やらなんやら今までの宮崎駿の作品と同じ(……わかってる人が見たらぜんぜん違うのかもしれないが)なのである。宮崎吾朗の『ゲド戦記』にしたってそうだった。これを、テレビの制作ドキュメンタリなど見ていると、両監督ともスラスラ描くわけだし、俺程度の目からすると、宮崎駿の「ジブリの顔」と見分けがつかない。そうなるとなにか、できた作品が「宮崎駿っぽいけど違うもの」、すごく悪く言えば偽物みたいな、さらにもっと悪く言えば「見た目だけ宮崎駿」、そんな気がしてしまう。背景込みの話といってもいいだろうか。
 って、たぶんこれはアニメというジャンルを見るにあたって適切なものではないのだろうとは思う。なにかこう、俺は、漫画のように見てしまっていて、アシスタントだった人が師匠の絵そっくりの漫画を描いたり、続編を出したりするような、そういうイメージかもしれない。あるいは、学年誌に載っていた藤子不二雄ではない人の描くドラえもんだとか。しかし、アニメはといえば、やはり監督=漫画家というものでもないのだろうし、制作会社単位のようなもので見るべきなのかもしれない。もちろん、キャラデザイナーというような役割もあるだろう。もちろん、ジブリには高畑勲のぜんぜん別キャラの作品などもあるわけだし、まあはっきり言ってわからんが。
 で、それはそうと、ともかく『コクリコ坂』もやはり宮崎駿風の少年少女がメーンなのである。背景もジブリクオリティ。で、やはり顔はといえばいくらアップになってものっぺりしているといえばのっぺりしていると言っていい。言っていいが、やはり俺はあんまりその点については、気にならない。アニメはといえばそういうものだ、という了解がある。
 ただ、さらに考えるに、たとえば登場人物の僅かな震えであるとか、汗の具合であるとか、シワのより方であるとか、涙の流れ方であるとか、そのあたりはこっちの脳内で補完しているから、それでいいんじゃないのかなどとも。もちろん、記号的な顔を投げ出されただけではやはり足りない。が、一枚絵の作品ではない、アニメーションなのだから、キャラの動きであるとか、声であるとか、背景であるとか、そのあたりの総動員の中でなんか表現がこう、来たりするんじゃないだろうか。むしろそうなると、顔なんていうのはそんなに細かく描きこまれていない方がいい……のかどうか。
 と、いきなり人形アニメーションの話をする。折口信夫原作、川本喜八郎人形アニメ死者の書』のDVDをこないだ買って観たのである。人形アニメーションを観るのははじめてのことで、人形アニメというものにちょっとびっくりしたところがあった。想像以上に、なんというのだろう、演技があって、人形が生きていたのだ。それを考えると、絵のアニメーションのキャラも、ある意味で人形のようであっていいのか、と。……と、『死者の書』のメイキングを見るに、睫毛が植えこまれて瞼の開閉もしてセリフに合わせて口と目の動きを一つ一つ表現できる細部まで作りこまれた人形って、そんなにのっぺりしてねえじゃん、みたいなところもあるか。あと、感情を表現するため、ライティングにも細かく気をつかい、人形の表情を引き出したりもしていたし、頭(かしら)も何個も用意されていたし。でも、ただ、ディテールは実写人間のアップに及ばないわけだし。
 てな具合に思ったりもしたし、さらに言えばその人形のルーツである文楽人形の頭だとか、能面であるとか、人物描きこまない理由にはそのあたりのルーツもあるんじゃないかとか想像するが、そのあたりはアニメ以上になにも知らんので、支える人なしで梯子に登ってシャンデリアの掃除をするような話ではある。ここでやめる。
 ちなみに、この『コクリコ坂から』の人物たちが動きやセリフ込みでどうだったかといえば、けっこう魅力的だったと言っていいと思う。ほとんど出ずっぱりの海ちゃんはハキハキ動くし、かわいい女の子がハキハキ動いていれば悪くない。写真の顔なんかもよくて、あのあたりは監督とその父の関係みたいな部分かもしれないが、あんなのもいい。
 ただ、あれだ、これは『コクリコ坂』に限った話ではないのだけれど、登場人物の目が点になるシーンがあるじゃん。すごく遠くに人物がいて、顔を描き込めるほどのスペースはないけれども、のっぺらぼうにもできないという、あの瞬間。そこで、目が点、口が棒になって、背景から比べたらリアリティのない顔が、さらに落書きレベルになる。『コクリコ坂』では、山下公園を向こうから歩いてくる二人と、あと船上のシーンのふたつあったと思う。これって、高解像度化の中で出てきたものかと勝手に想像するけど、どうにかならんのだろうか。すごくこう、冷めるところがある。新しい表現方法が待たれる。
 それとあれだ、取ってつけたように追記すると、アニメの中で動くものは人ばかりでなく、たとえばこの『コクリコ坂』でいえば、船が魅力的だった。タグボートも、大型船舶も、だ。あれがこう動くところにアニメの高揚のようなものもあるし、そっちは「リアルが動く」ところの良さがあるだろうか。しかし、父が空なら、息子は海か。もしも三代目が出てきたら陸に定評があるということになったら、それもまたいい。

映画『コクリコ坂から』の感想

 ちなみに、じゃねえや、感想文書いてるんじゃねえか。いや、おもしろかったよ。悪くない。もしもネットを薄目で見て(ソーシャルブックマークでフォローしている人がブックマークした感想記事の見出しと、その人のコメントだけ見ること)、「ゲド戦記と同レベルっぽい」というのであれば、わざわざ映画館に行くつもりもなかったんだけどさ。いや、『ゲド戦記』とは大違いなんじゃねえのか。傑作とは言わないけど、なにかこうとりあえず見ておいて損はないんじゃないのか、という。と、もちろん、上に記した個人的な思い出と、あとは横浜在住というか、映画の舞台になったあたりをジョギングしたりしている補正みたいなものはあるだろうが。それでも、愛すべき佳作の『アリエッティ』と同じくらい評価したい。
 なんだろう、前のめりに早足の海ちゃんのペースで話が展開していって、はっきり言ってワンペース(競馬用語)なんだけども、それで流れに身をゆだねるとわりかし小気味いいラップ刻んで走破しましたという。大逃げ激走、大差勝ち、みたいなもんじゃないよ。あっと驚く32秒台の末脚を見せたわけでもないよ。いわば中級条件で人気する馬の手堅い競馬だよ。でも、馬券を買った価値はあったという感じだよ。まあ、ひょっとしたらジブリという超良血の期待馬に求められているものとは違うかもしれないが、秋の未勝利戦で3.4秒差負け、即地方転出みたいなことも許されないわけだし(……ゲド?)、力をつけていけば重賞勝てるかもしれないぜ。って、なにこの競馬脳の恐怖。
 いや、いいや、もう眠いし寝るとしよう。カルチェラタンのようにクソ汚れた部屋で。でも、俺のアパートは海ちゃんの家に壁の色が似ている。悪くない。
 
関連____________________________________
コクリコ坂から (単行本コミックス)

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 ちなみに、原作も買ってて、先に読んでいた。読み終えたときはジブリ絵の海に違和感があるくらいだったが、今読めば逆だろう。これを宮崎駿がどんな風にぶった切って再構成したかというのは面白いところだと思う。
横浜市電が走った街 今昔 ハマの路面電車定点対比 JTBキャンブックス

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 映画には市電もよく走っていた。その手のノスタルジーに浸りたければ、市電保存館がいい。とくにコクリコ絡みの展示などしていないようだが。

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 あんまり関係ないけど死者の書 親父が少女なら、息子は少年だ、というあたりで宮崎吾朗覚醒みたいな展開希望。ねーよ。

関連日記________________________________

 ……学校ネタ。

 ……思ってたよりハイテンションで激賞しててちょっと引いた。

 ……思ってたより痛罵してなかった。

 ……なにか言い知れぬ不安を感じる、この人の文章。