アダムがイブを炎上させたとき、誰がメシウマだったか?

 メシウマでなにかが炎上するようなことに関する記事を読んだ。おれはこんなメモをした。

個人個人がどうなろうとどうでもいいが、結果としてP.K.ディックが『いたずらの問題』で描いた「道徳再生社会」みたいになるのはごめんだ。しかし、そういう意味でお上はネット上のメシウマ炎上を放置するだろう。

 フィリップ・K・ディックの『いたずらの問題』といえばおおよその人にわかるだろうから説明の必要もないだろう。と、思ったらそうでもないようなので、過去の自分の日記からごそっと引用する。

 それはともかく、さらにはこの訳書と解説(宮部みゆき。ディックのファンだったとは)がなされた1990年代初頭にも見られなかった、きわめて現代的な問題も見抜いているように読めた。

 それは、この道徳社会を成り立たせる一つのシステム、ブロック集会。非道徳的行為に及んだ人間が、居住ブロックの住人達によって裁かれる。議題になるのは、配偶者以外とのセックスだとか、妻以外の女性とのキスだとか、酔っぱらって暴れたとか、その程度のことがら。

 この集会のシステムがおもしろい。被告人と評議会(裁判官の役目をする)以外は、同一の声だけの存在、匿名の存在なのだ。声の主は、その会場に居るブロックの住人たち。しかし、全て同じ声に変換されて会場に響く。ある声は壇上の者を弾劾し、ある者は擁護する。発言者はほとんど誰だかわからない。

 また、こういった裁判の材料を集めるのは、ジュブナイルと呼ばれる小型の虫型機械。これが、人間社会の隅々まで監視し、データを収集しているのだ。ささいな暴言や素行も、ジュブナイルがたまたま監視していたら、衆目にさらされることになる。

 さあどうだろう。われわれの中にジュブナイルはいるか。正義感と好奇心、悪意がない交ぜになった吊し上げはないか。ネットイナゴってどんな虫?

 不法の者、非道徳的な者に法や道徳を説くことはできる。では、行き過ぎた法や道徳に何を説けるのか。イエスは「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げろ」と言ったが、「あなたがた」と呼びかけられる者がおらずに、言葉だけではお手上げだ。ではどうする?

「もし正体を明かしたら、きさまを息ができなくなるまでぶん殴ってやる。こういう顔のない告発にはもううんざりだ。屈折したサディスティックな心が、こういう集会を利用して、薄汚い細部をほじくりまわし、罪もない行為を手垢で汚して、どんなあたりまえの人間関係にも汚穢と悪とを読みとるんだ。……」

 と、手をあげようと意気込んだところでも相手は見えない。それならばこそ、声の主が勝手に考え、自らを疑うような何かを仕掛けるか。それがいたずらの問題、ディックのやろうとしたこと、ヴォネガットのやろうとしたこと。あるいは道徳と非道徳が逆転する場合もあろうか。果たして如何。

 おれがこの感想を書いたのは2007年。Twitterがあったかどうか知らないが、ますます「ジュブナイル」の動きは活発になっているし、非道徳的行為をしたものを盛大に燃やしつづけていて、都会の夜は明るい。他人の不幸は蜜の味だし、いとこ同士は鴨の味という、紀元前からの人類の歴史の光だ。プロメテウスなんて必要なかったんや。
 なにを言ってるのかわからないのは、まったくおれがもう眠いからなのだが、そういう話である。まあ、ともかくおれはそういう相互監視の道徳的社会というのはごめんだという気持ちが強い。震災直後に、どこかの学校で義捐金を出さなかった生徒の名前を黒板に書き記したという話があって、俺などは「自分の中では、この教師よりも遊ぶ金欲しさに募金箱盗むやつの方がまだマシという感じがする」と言ったりしたものだが、だいたいこれは誇張表現などでなく本心といっていい。どういう基準でそう感じたかはまだわかっていないが。
 ただ、一方で、おれがその学校の教師のことを考えたときに、「ジュブナイル」の虫の気持ちになっていないといえば大嘘もいいところだ。もし記事に名前の手がかりがあったとすれば、己が検索技術を駆使して別に似たようなことをしていなかったか、あるいは、今回の行いと矛盾するような言動を残していないだろうかなどと探したはずである。絶対に探したといっていい。所詮はネット上の検索だが、自宅をスネークしたりするのとなんら違いはない。今日だって、新聞一面の記事で紹介されていたあるジャンルの店のサイトを検索し、ブログの過去記事を辿り、「あれ、この写真アウトくさくねえ? でも、言い切れる自信はないな」というのを見つけたりもした。自信ないから見つけただけだよ。暇なやつ。
 まあ、要するに「ジュブナイル」は楽しいし、気持ちいい。匿名ならなおさら気楽だ。正義感というのは麻薬か酒か、なにかいいものに違いない。ただ、気持ちいいことをしているつもりが、どんどんてめえの首を絞めていくことまで気持ちいいとは言えない。
 たとえば、おれがしょうもないと思う自転車乗りを痛罵していくにつれ、おれは自転車で滅多なことはできないという気持ちになっていく。それは不自由の道に違いない。その記事はなにかこう書き飛ばしたからなにもエクスキューズを載せてはいないが、そこからリンクしている過去記事では、「俺も完璧にできねえが」という言い訳をぐだぐだ書いているはずだ。特定の誰かを晒しあげているのではなく、広範囲にぶちまけてる記事ですら、おれはおれの首を絞めるものを意識せざるをえないし、おれは臆病だ。
 でも、それでも物申したいこと、抗議したいことというのは出てくる。だから俺はそうした。そしてたぶん、俺や誰かが、「そこまでしなくても」というような苛烈な追及も、やっている当人にとっては譲れない問題であり、社会正義の最低限のところだ、と言うかもしれない。そのとき、おれはそいつに、おれの方が正しさについて正しいものさしを持っている、などとは口が裂けても言えない。腹でどう感じているかは別として。右の柱の中の過去記事を見たら、おれの感覚がぶっ壊れているのがわかるだろう。おまえに言われんでもわかっとるわ。
 
 ……などという話、まあやはり有史以来の話か。おれはたまたま『いたずらの問題』が思い浮かんだが、ほんとうはもっとこれについてずばり論じている本などもあるに違いないのだ。
 さて、本題だが、いや、本題なんだけど、「しかし、そういう意味でお上はネット上のメシウマ炎上を放置するだろう」という部分だ。これはそのとき思いついたもので、「お上」が何を指し、なぜ「そういう意味で」なのか、というか、そもそも放置しているのか? というところ。これについて考えてみたい。
 みたいが、もう眠い。ただ、ちょっと思いついたところを述べるに、単純な筋書きは、「支配者からすれば、非支配者を分断し、互いに監視させるようにしておくのが常道じゃね?」ていどのことである。たぶん、歴史上いろいろ現れたことと思う。それで、あんまりそういった道徳的炎上行為は問題にしないのだ、と。
 が、しかしなんだ、「お上」がこの国の政治家を指すのであれば、些細な悪事をほじくり返されて立ちゆかなくなっている現状があって(むろん、政敵から見たら職を辞すべきレベル、なのであって……なのだが)、なんというかしかし、「お上」ってなんだよという。もうちょっと、なにかこう、支配層、富めるもの、そういうものを仮定すると、やっぱりなにかこう、具体的にいるのかよ? いや、富裕層はいるんだけど、などと木偶の調達もできない。ただ、国なら国がネット上のいろいろのトラブルの中でも、Twitterで犯罪告白→大炎上みたいな事象について、なにか注意したりという話は見ないな、などと。いや、国なら国がそこに口出しすること自体の妥当性というのもあるが。
 そんでも、それ以前に、政治家や役人が「些細な悪事くらいは見逃しましょう」といったり、「悪いことしても世界につぶやかないように」とアドバイスしたりって、それはできなさそう、というか。すぐさま犯罪者擁護だといって、燃やされてしまうだろう。そうすると、「些細な悪事も犯さないように」などという建前だけが独り歩きして、みごとな相互監視のディストピアになっていく。言葉だけといってもいいネットは、むしろ本音の世界でなく、建前が最強の世界なんじゃないか。……と、話が逸れそうなところでおやすみなさい。でも、やっぱり人間とかいうのは、今のところはろくでもない不完全なもんであって、おれは基本的にラーメンが獣臭くなってしまうようなやつの側に立ちたいとは思うのだがね。それでも自転車の逆走は許せないんだよ。どうすりゃいいんだ?

いたずらの問題 (創元SF文庫)

いたずらの問題 (創元SF文庫)