ぼくはホッパーが好き、彼女はオキーフが好き

 自分がいつエドワード・ホッパーを好きになったのかわからないのだけれども、ともかく好きな画家なんだ。でも、実際の作品は一回も見たことがなくて、どう逆立ちしたってアメリカまで『ナイト・ホークス』を観に行くなんてこともできないし、じっと日本に来るのを待つしかなかったんだ。それで、いよいよ観る機会がきたっていうのに、いろいろあって最終日の一日前ってことになってしまったんだ。まあ、最終日だから色が薄くなってるわけでもないからいいのだけれど。
 で、これが『エドワード・ホッパー展』なら万々歳なのだけれども、『モダン・アート,アメリカ〜珠玉のフィリップス・コレクション』なんだよね。でもいいんだ、アメリカは嫌いじゃない。ホッパーのような都会の孤独のようなものもいいけど、なんとなくダサくて、垢抜けない、古くて、かび臭くて、どこか自然の闇や脅威のある、南部ゴシック? そういうアメリカにも惹かれるところがあるんだ。俺はよく知らないけど、ラヴクラフトなんかもそういうアメリカなんじゃないのかな。まあ、俺はダンセイニが好きで、どうもラヴクラフトは苦手なんだけれども。
 「第1章 ロマン主義とリアリズム」では、まだ入植後のアメリカかというような絵があったような気がする。ゴーギャンみたいの? とかだっけ。よく覚えてない。エドワード・ヒックスという人の『平和な王国』は伊藤若冲(かその弟子)のあれみたいな感じなのだっけ?
 「第2章 印象派の印象は? チャイルド・ハッサムという人の『ワシントン記念門、春』の色使いがきれいだった。どうも昔の都市というと、けっこう白黒のフィルムなど残っているものだからそういう印象があるのだけれども、しっかりとカラーが、美しいカラーが残されているんだぜ。あと、モーリス・プレンダーガストという人は絵の具盛り盛りで面白い。『パッリア橋』という絵の橋の左側の欄干がよかった。
 「第3章 自然の力」は自然の絵というか、人間対自然みたいなところがあるのかな。ロックウェル・ケントという人の『ロード・ローラー』の『ロード・ローラー』はメカ的に素敵だった。同じくケントさんの『若い男の埋葬』は、国とかシチュエーションとかいろいろ違えどもガルシア=マルケスの「美しい水死人」というタイトルが浮かんだりした。あとは、第1章のウィンズロウ・ホーマーの『救助に向かう』と相まって、映画『シッピング・ニュース』とかね。マースデン・ハートレーという人の『山中の湖、秋』は、紅葉の山中湖の風景だろう。
 「第4章 自然と抽象」。ここでいよいよ目玉の一人、ジョージア・オキーフの登場とあいなる。真中に無味乾燥な砂漠に妙な存在感のある造形『ランチョス教会、No.2、ニューメキシコ』、左右に『葉のかたち』、『白地に暗赤色の大きな葉』というトリプティク(?)構成。さすがに存在感があったし、葉っぱは見ていて飽きないところがある。ちなみに、この章あたりは1920年代〜くらいの作品。休憩室にあった年表では1925年『グレート・ギャツビー』出版。1927年、サッコとヴァンセッティ処刑。
 「第5章 近代生活」。アッシュカン・スクール(吸殻入れ派?)と呼ばれる、都市生活の汚い部分みたいなのを好んで描く画家たちが出てきたとか云々。日本の写真美術でも、「乞食写真」なんていう言葉もあったっけ。でも、社交界っぽいのかな? まあそういうのに見えないこともないのは、なんとなくカポーティの「叶えられた祈り」なんかを思い浮かべたりもして。そういえば、あれの文庫はホッパーだった。
 って、ここでいよいよメーンのエドワード・ホッパー『日曜日』登場。うーん、やっぱり出色のしろもの。ここまでいろいろ書いてきたけど、ともかくホッパーが一番いい。想像を裏切られることはなかった。この絵も、たとえばポスターやホームページなんかで見てきたけど、実物を見ると、この画面右上からおっさんに来る光というか、その強さみたいなものにしびれるところがある。ただ、なんというか、虚ろでせつない感じがあって、乾いていて、そこもいい。うん、いいな。『日曜日』に関しては、最後まで観たあと、また引き返して観たりした。ただ、ただなんというか、1作単品では物足りない。もっといいのがあるんじゃねえのか、もっといっぱい並んでたらもっといいんじゃねえのか、そんな気はした。
 「第6章 都市」は、ずいぶん近代的な都会になりつつあるニューヨークとか摩天楼とかね。なんかよくわかんないけど、画家たちが目の前に現れたその巨大で圧倒的なものを、どう描こう、どう受け取ろうみたいな、そんなやり取りを見るようだった。ルイス・エルシミアスという人の『ニューヨークの屋根』、これが夕暮れのビル群になにか尖塔ようなもののシルエット、よかった。ジョン・スローンの『冬の6時』は人びとで賑わう雑踏の上に電車が走ってて「おまえらこういうの好きだろ?」って感じの作品。「おまえら」が誰だかしらんが、なんかそんなふうに思った。これが動き出したらレトロフューチャーなSFっぽいかな。あと、もう一作ホッパー。
 「第7章 記憶とアイデンティティ。黒人の作品であるとか、そういったあたり。草野球の絵とメジャー・リーグの絵があったのだけれど、どちらも横須賀の米軍居住地内で見た野球場、ソフトボール場が即座に連想されて、なにかしら確固たるアメリカ的ななにかがあるのだと思ったな。あと、通称グランマ・モーゼスという70を過ぎて、刺繍ができなくなったから絵を描き始めた、まあアメリカでは国民的人気画家おばあちゃんの作品もあって、なるほど愛らしいものだった。「おまえらこういうの好きだろ?」って感じだ。この「おまえら」はさっきの「おまえら」とは違うけど。うん、でも俺も好きだよ。アルフレッド・ウォリスなんかも、年取ってから描きはじめたんだっけ。こういうのはアウトサイダー・アートというよりフォークアートといったほうが似合うのかな。
 「第8章 キュビスムの遺産」〜「第10章 抽象表現主義は、まあ抽象画とか、素人にはわからんし、理屈で描かれているところも大きくて、なんというのかこれはもう「アメリカ的」みたいなものでもないし、これといって興味を惹かれるものは何一つなかった。いや、ぜんぜん価値とかわかってない人間の言うことだからさ。

 総括すれば、珠玉かどうかあやしいといったところだったんだけれども、それでもやっぱり生のホッパーが観られてよかったぜってところかな。
 なんだろうね、絵なんて動かないし、操れないし、エロくないし、沢城みゆきの声でしゃべったりもしないんだぜ。それなのに入るだけで1,500円とか払って、でもやっぱり見る価値あったなって、たとえばホッパー1作でもそんくらいの価値はあるなって感じるのは、まあちょっと不思議なもんだと思うよ、ほんと。


豚組 しゃぶ庵
 帰りは豚組の1,000円ランチ。14:00で料理終了、14:30閉店、入ったのは13:40。時間ギリギリでメーンである肉が追加されるのかどうかといういろいろの攻防なようなものがあった。結局出てきたので、やはりここは良い店なのだろう。隣の席の女の子が、終わり際まで「まだ余っていてもったいない」と豚をがっついていたので、東京も捨てたもんじゃないと思った。俺はダイエットをやめたので、前に来たときと同じくらい食べたつもりだが、やはりそれほどでもなかったかもしれない。

関連☆彡

 この美術館はこれ以来か。ちなみに、今回も入場無料の書の展覧会もサラっと見たんだけど、なかなかおもしろかった。

 ……そういや、中川昭一さんもホッパーが好き、だったんだ。
最後の瞬間のすごく大きな変化

叶えられた祈り (新潮文庫)