人間的と非人間的、あるいは極刑の極みについて

 大月被告は最高裁に統計が残る66年以降、犯行時の年齢が最も若い死刑確定者になるとみられる。第一小法廷は「犯行時少年だったことなどを十分考慮しても、死刑はやむを得ない」と言及。判決を踏まえ、少年による凶悪犯罪の裁判では、犯行時の年齢や立ち直りの可能性よりも結果の重大さが重視される流れがさらに強まりそうだ。

http://www.asahi.com/national/update/0220/TKY201202200258.html

 光市の事件の死刑が確定したというニュース。

●わりかし何度か触れてきたが、さて、さっきなにか思い浮かんだことは書いていたようだ。
●死刑というものがあるならば、「更生の可能性が低い」とかいう理屈はやめるべきだ。むしろ、「しっかり更生させて、その上で処刑します」であるべきだ。わけのわからんやつままのやつを、「あれと俺たちとは違う」って線引きして、ようするに「非人間」扱いで吊すのは、なんかおかしいだろって。
●死刑の執行猶予のある国もあるらしい(中国だったか。「再教育」という名の思想改造を前提としたものだったろうか)が、それとは逆に、どこに出しても恥ずかしくないような人間にした上で吊す。刑務官も世間の人の大多数も「殺すのはやめてくれ」と思うような人間を処刑する。そうしてはじめて極刑の極みが現れるんじゃないのか。
永山則夫は自分がそういう人間になっていて、自分が処刑されたら暴動が起こると考えていたくらいらしいが、『無知の涙』を途中までめくったくらいしか知らないのでよくわからん。
●まあ、ある人間なり組織なりが、ある個人を「どこに出しても恥ずかしくないような人間に」できるという発想の時点でおこがましい。それこそ洗脳か。
●そんな制度になったところで、死にたくない受刑者がずっと更生しないふりをしつづけて生きつづけるということは起こる。
●そんなやつが、内心でふと後悔の念に襲われた瞬間に死ぬシステム。
●内心を客観的に測定できるようになるか。リアルタイムの脳内伝達物質の行き交いをモニタリングして、「更生値が高い」などと。
●社会に適応しにくい構造の脳の人間は減刑。あるいは、優生学的に人為的に淘汰、それともエピジェネティックに「治療」。
●そんなものが可能になったら、あらかじめ「人間」と「非人間」の線引きを設定しなくてはならない。それが望ましいものであろうか。
●人間が犬に喰われるくらい自由ならば、人くらい殺すだろう。
●なぜ、人は人を殺すのか。国家が人を殺すのは、人が人を殺すことと何が同じで、何が違うのか。
●なんの話なのか、俺はキーを打ちながらしかものごとを考えられないので、着地点も決めてない。うっかりしていたら、足元の板がガッコンって開いて吊られてるかもしれない。悪くない。
●おれの処刑台の足元の板が開くときは、競馬のゲートが開くときの、例の効果音をつけてほしい。