インターネットが発達した結果、私たちは自己表現や自己主張に追い込まれたのか?

副題:福田恆存『人間・この劇的なるもの』を読む

人間・この劇的なるもの (新潮文庫)

人間・この劇的なるもの (新潮文庫)

 ここのところ教科書的なというと語弊があるかもしらんが、なにかについて集めて紹介したり、解説したり、そんな本ばかり読んでいた。なので、ひさびさに(……というか、ここのところの読書自体がひさびさなのだけれども)、あるやつか「こうなんだ!」って言ってるような本を読んだという気になった。いや、むろん、言うまでもないけれども、どんな本だって「こうなんだ!」を逃れられないのだろうけれども、その濃度というかなんというか。
 で、しかし、失敗だったのは歴史的仮名遣ひ論者の著者なのに、現代版に改められた文庫をひょいと手にとってしまったことで、どうせ図書館で借りるものなのだから(買う場合、たとえば石川淳なんかは予算の関係で泣く泣く文庫版ということもあるが、やはり違和感がある)、旧仮名のを探せばよかった。
 そんでその、なんだろうね、俺、シェイクスピア読んだことないし、劇もみたことねえし、まあそれでもなんかうまい具合に説明してくれてる感はあるんだけれども、そのあたりはなんとなくアクセル踏んで読んでしまった感もあり、気になったところをいくつかメモする。

 私たちは日々の労働で疲れている。ときには生気に満ちた自然に眺めいりたいとおもう。長雨のあとで、たまたまある朝、美しい青空にめぐりあう。だが、私たちは日の光をしみじみと味わってはいられない。仕事がある。あるものは暗い北向きの事務所に出かけて行き、そこで終日すごさなければならない。そのあげく待っていた休日には、また雨である。親しい友人を訪ねて、のんきな話に半日をすごしたいとおもうときがある。が、行ってみると、相手はるすである。そして孤独でありたいとおもうときに、かれはやってくる。

 俺、この本でいちばん好きな文章はここだな。そのまま箴言になるような、主張の要点みてえなところじゃないけれども、なんかわからんが、リズムにうたれる。「仕事がある」ってところがとくにいい。そう、「仕事がある」。

 私たちが真に求めているものは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起こるべくして起こっているということだ。そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめ、なさねばならぬことをしているという実感だ。なにをしてもよく、なんでもできる状態など、私たちは欲していない。ある役を演じなくてはならず、その役を投げれば、外に支障が生じ、時間が停滞する―ほしいのは、そういう実感だ。

 生きがいとは、必然性のうちに生きているという実感から生じる。その必然性を味わうこと、それが生きがいだ。私たちは二重に生きている。役者が舞台の上で、つねにそうであるように。

 「ある役を演じなくてはならず、その役を投げれば、外に支障が生じ、時間が停滞する―ほしいのは、そういう実感だ」って、なんかわかるわー。ってさ、俺ってなんかすごい働くの嫌い、餃子の王将も嫌い、ワタミも嫌いで、ともかく自由、自由になりたいって、そればっかり言ってるんだけれどもさ。

 なんか実感として「仕事がある」っていうか、そこんところに重きを置くというか、自らの生活を見るにやっぱり労働者の権利を主張する団体などから見たら過重労働、低賃金、搾取、みたいなところかもしらんが、「んなこといったって、俺がいなきゃこの零細企業すぐ潰れるぜ」みたいなところがあって、言ってることとやってることぜんぜん噛んでねえよって自覚もある。その役を投げれば、外に支障が生じ、時間が停滞するって、たいした役でもねえのにそういう自覚があって、なんというのだろうか、わりと勤労者なんだよ、俺は。俺がやらなきゃいくつかの公共××の×××が更新されねえぞ、とか。いや、そういうのじゃなくて、例えば社内で俺にしかできないコピーライティング、リライト、校正、写真修正、写真加工、コーディング、Adobe作業の自動化、たいしたレベルじゃねえにしろ、そういうものがあってなにかしら最低のラインに足をつけていてさ。たぶん、右上の検索欄に「さて、帰るか」って入れると、わりとそういう面の俺が出てくると思う(自宅にパソコンを買ってからは帰る前に書くことが少なくなった。というか、遅くまで一人のこるほどの仕事がなくなったのか……)。
 それで、俺がいろいろの薬で脳内伝達物質を調整せざるをえないくらい追い込まれているのは、そんなささいな「役」を失う恐怖からきていること間違いないんだよ。
 となると、俺の労働忌避、ただただ遊んで生きたい願望、アナーキー志向、そういったものは、なんつーのか、そうでありたい自分なんだろうね。それをブログなんかで「表現過剰」してるだけかもね。

 私たちのあいだには、表現そのものにたいする伝統的な不信の念がある。私たちは、はじめから表現に虚偽を見る。「虚偽の表現」ではなく、「表現は虚偽」なのである。

 って、昔の「平穏な仲間内の社会」ではシアトリカルなもんなんて必要なかったし、嫌ってりゃよかった、が。

 近代の日本においては、その形式が消滅したばかりでなく、私たちは、あらゆる場所に外部の現実との違和を見いださなければならなくなったのである。適応異常が一般的になった。私たちは自分の道を遮る他人を発見した。それを好むわけではないが、またもちろん、意識的にそれをおこなうわけではないが、結果として、私たちは自己表現や自己主張に追い込まれたのである。それは正確な意味においての自己表現ではない。自己主張を必要としないほどに自己を隠してくれていた自己と他人との間の幕が取り払われ、自己が露出してしまっただけのことである。それまで遠くにあった他人が、いまではすぐ眼の前にある。距離が小さくなってみて、はじめて、私たちは自他の違和に気づいた。
 私たちは、その違和感を解消しようとしてあせる。そうして、表現過剰におちいる。

 これって、正直、「近代の日本においては」ってところを、「インターネットが発達した結果」とかに入れ替えたらスッと入ってくるんだけれども。また東浩紀の孫引きになるけれども。

 「インターネットは、いままで発言する機会のなかった人たちにも大量に発言する機会を与えた。また、いままで見えなかった小さな格差や差異を大量にみえるようにした。そのことによっていいことも起こるけど、悪いこともやっぱりたくさん起きるんですね。その一つの結果が、小さな実感に基づいたルサンチマンのネットワークだと思います」。

病んでる俺が『日本思想という病』を読む - 関内関外日記(跡地)

 なんか似てるかも。いや、なんかわからんが、「平穏な仲間内の社会」が失われ、近代化したら他人が見えるようになった(まあなんかそういうことなんだろう)、それで、最初はそんなん私小説家の問題だったりしたのが、こんな俺ですらなんか書いて晒せるような、こういう状況になって、ますます拍車がかかってるとか、そんなインtなーネット論で一本どうですか、みたいな。
 で、そんな表現過剰をどうにかしようとするにはというと。

 過剰にせよ、なんにせよ、自分が表現したものに、実生活において追いつくこと。表現されたものを鏡として、自分を化粧すること。さもなければ、表現過剰をつつしむこと。が、どちらの道を辿っても、私たちは袋小路にぶつかる。どちらもふたたび表現不信に帰りつかざるをえない。

 で、表現に追いつこうとしたら前途には敗北か自殺しか待っていなかったりするそうで。ほんで私小説の話とか出てくるけど、よくわかんない。でも、そういうもんじゃない福田の主張する「演戯」いうもんがあって、ただ、私小説作法だけの話じゃないとか言ってて。

 演戯によって、人は日常性を拒絶する。日常的な現実は私たちを自分の平面に引きた倒そうとして、つねに寝わざを仕掛けてくるからだ。私たちはそれに負けまいとする。あくまで地上に、しゃんと立っていようとする。そのための現実拒否なのだが、それは現実からの逃避ではない。逃避していたのでは、私たちは現実の上に立てない。現実を足場として材料として、それを最大限利用せねばならぬのだ。現実と交わるとは、そういうことである。私たちの意識は、現実に足をさらわれぬように、たえず緊張していなければならぬのと同時に、さらに、それを突き放して立ちあがれる「特権的状態」の到来を、つねに待ち設けていなければならない。

 と、これはなんか肯定だよね。グラップラーに対する空手家のように、タックルを切るようにしておけ、と。……いや、この「演戯」の話はなんかべつの本でも主にしてるらしいし、重要なキーワードだ。この本でもたくさん出てくる主題だけど今のところ咀嚼しきれない。で、幾度か読んでたらまた遅くなって、最後までいったりして「ああ、この葬式とかそういう儀式の型に重きを置くところが保守なのか。そんで、そこで一般人が演じるということを肯定しているところのそれは『演戯』だからなんだろうか」とかなんとかいろいろ思ったりしつつも、明日というか今日も「仕事がある」のでこのへんで。