正しくない119番のかけ方


 夜の8時過ぎだったと思うのだけれど、近くの蕎麦屋に晩御飯を食べに行っていた上司が帰ってきてこう言うわけ。
 「隣のビルの前で腹を押さえて痛がっているじいさんがいて、119番通報してくれって頼まれたけど、あいにくケータイを社内に置いたままだった。ちょっと行ってみてくれないか」
 しかたないから私ともう一人で外に出てみたわけなんだけれども。そうしたら、うちのビルの駐車場の隅に人間だか不法投棄されたかゴミか、あるいはその両方かわからない物体が見えたというわけ。近づいてみると、ふたつみっつの紙袋といっしょに寝ているおっさんだったから、最後の一択が正解に近かったのかもしれない。それで、近づいてみると、寝息も立てず、まったく動くそぶりもないものだから、声をかけてみた。
 「大丈夫ですか? もしもし?」
 それでも、ピクリとも動かないから、肩をゆすぶってみると、目を開いて、小さく唸ったりしたというわけ。
 「救急車呼びますか? 大丈夫? 救急車?」とわたし。
 「ああ、うー、大丈夫、大丈夫」とおっさん。
 あら、大丈夫なのかしら。酔っ払いが上司にからんだだけなのかしら。と、思ったら、後ろから声がしたというわけ。
 「そっちじゃないわよ、こっち、こっち」
 と、もう一人出ていた同僚。
 たしかに、こちらは隣のビルとは反対側にあるのだし、この寝入りっぷりだとあっという間にこちらに移動したとは考えにくかったわけなのだけれども。まあ、こちらのおっさんは向かいの立ち飲み屋の客なのだろうから、ほんとうにまずそうだったら対処するはずなのだし、この寿地区で寝ている人間にいちいち声をかけていたら日がくれてしまうのだけれども。
 それで、隣のビルの前に行くと、車止めに両手で寄りかかっている、あっちで転がっていたのと同じようなドヤ系のじいさんがいたというわけ。
 「うー、119番してもらえませんかね、すみませんね、すみませんね……」とじいさん。
 「どうしたんですか? お腹がいたいの?」と同僚。
 「あー、横浜に行こうとしてたんだよ、そうしたら、脇腹が痛くて、歩けないんだ、救急車お願いします、救急車」とじいさん。
 同僚が、私の方に近づいてきて言うの。
 「どうする?」と。
 そう、まったくどちらかというと、この寒さのなか、ぴくりとも動かないで寝ていたあっちのおっさんの方を救急搬送したほうがいいんじゃないかしら。それでも、本人が救急車呼んで欲しいといっているのだから、呼べばいいんじゃないのかしら。このまま放っておいて、明日冷たくなっていたら少し縁起が悪くなくて?
 などと言って、119番してもらったというわけ。その間、わたしはおっさんに近づいて、声をかけてみたりする。
 「大丈夫? どこが痛いの?」とわたし。
 「脇腹がねえ……痛くて。横浜、ここからなら近いでしょ。すみませんね、すみませんね、すみませんねぇ」とじいさん。
 見たところ酔っ払っているふうではないけれども、いかにも脇腹の押さえ方がわざとらしいのだし、両手で車止めに寄りかかってるとはいえ真新しいダンロップのスニーカーを履いた二本の足で立っているのだし、「すみませんね」と言い出したら止まらないくらいには口が回るのだし。正直に言うと、仮病に見えてしまったのだし、本当におなかが痛いのだとしても、救急車が必要そうな人には見えなかった。
 同僚もそう見ているようだった。電話口と半ば笑いながら話しつつ近づいてくる。
 「ええ、本人は立って、しゃべっています。でも、動けないって。いいえ、たまたま隣のビルのものでして、通りがかりの人ですから。ねえ、おじいさん、おいくつ?」と同僚。
 「48歳!」とじいさん。
 「48歳、と本人は申していますが、とてもそうは見えなくて」と噴きだしてしまう同僚。
 「すみません、すみません、すみませんねぇ」とじいさん。
 また二、三言葉を交わして通話は終わった。
 「今、救急車呼びましたからね。来てくれるそうですからね、しばらく待っていてくださいね」と同僚。
 「すみませんね、すみませんね、すみませんねぇ、横浜、近いから行こうとしたんだけど、脇腹痛くなっちゃって」とじいさん。
 それ以上の会話もなく、かといって職場に戻ってしまうわけにもいかず、「何分くらいでくるのかしら?」、「住所言った時点で、だいたい向こうもどんな具合か察していたみたい」などと適当な会話をして待っていたというわけ。そうしたら、救急車の音が聞こえてきて、あっちの通りを過ぎていったのがわかった。救急車両でも一方通行を逆走しないものなのだ。時と場合によるのだろうけれども。時間にして、結局5分かそこらだったと思うのだけれど、はっきりと測ってはいなかった。
 それで、わたしは、救急車を誘導する必要があると思って、曲がり角の方に向かったというわけ。すると、やっぱりさっきのおっさんが立ち上がっているし、立ち飲み屋から人が二、三人出てきている。まったく、彼らが救急車を「必要ないから」と追い返してしまっては、わたしたちが寒いなかコートも着ずに外に出ていた意味がなくなってしまうのだから。
 こっち、こっちと大仰な手振りで救急車を右折させて、救急車を必要としていると称する人のほうに寄せた。さすがにサイレンの音と赤色回転灯には少し緊張したのだけれども。でも、中から隊員さんが二人出てきてほっとしたというところね。あとは引き渡して、専門家である彼らが判断すればいいことなのだし、たぶん彼らにしてもこういう情況にも、患者にも、慣れっこなのだろうと思ったというわけ。
 わたしたちは腹痛の自称48歳のおじいさんに通報を頼まれただけというと、すんなりと、「それでは結構ですので」と言われて、職場にもどる。隊員たちとじいさんとの会話は聞こえなかった。
 「なんだか、やっぱりおかしいわよね」と同僚。
 「そうね、でも、ああいう人たちはずっと健康診断とか受けられないで、気づいたら末期がんだったなんてこともあるし、なんとも言えないんじゃないかしら。そんな終末期のホームレスをケアする福祉団体のドキュメンタリーをテレビでみたことありますもの。なにより、本人が頼んでいるのだし、わたしたちは彼の病歴もなにも知らないのだから、通報するしかないじゃない」とわたし。
 そう、呼ばなくてもいいんじゃないかって、そういう思いも強かったのはたしかなのでした。これがいわゆる「無駄な通報」にあたって、本当に必要な患者の救護を妨害しているのかもしれないって。だって、本当に脇腹を押さえるしぐさがわざとらしくて、まったく緊迫感が感じられなかったのから。それでも、わたしたちは彼の病歴もなにも知らないのだし、医師でも救急救命士でもなのだから、通報するよりなかったのだし、その通報を受けた方は救急車を出すしかないに違いないの。なにせ彼はお腹が痛くて動けない、救急車を呼んでくれの一点張りなのだし、わたしたちには問診の技術も、触診の技術もないのだから、そう言われたらそれを否定することなんてできないのだし。
 ひょっとすると、彼は本当に一歩も動けず、寝転ぶこともできないほどの痛みと戦っていたのかもしれないのだし、沈黙の臓器とかいうものが最後の悲鳴をあげはじめたのかもしれない。放っておいたら、明日の朝まったく冷たくなってあそこに転がっていたかもしれないのだし、転がっている人間なんてここでは珍しくないのだし、むしろ人の安眠を邪魔するのは野暮のようなところもあるのだから、明日の晩くらいになってようやく異変にだれかが気づいたりするかもしれなくて。
 まあ、結局、救急車はサイレンの音を立てずに去っていったのだから、後者の想像は否定されたといっていいのだろうけれども。それでも、賭けを外して「よかった、重病の人はいなかったんだ」という気持ちにはとてもじゃないけどなれなくて、なんとなくもやもやしたものばかり残ってしまったというわけ。ほんとうにもっと重篤な患者の生存を邪魔してしまったのじゃないかしら。それとも、わたしたちの判断と自己責任で、「おっさん、大丈夫そうだから救急車いらんやろ、ねぐらはどこ? タクシーなら呼んだろか」とか言って突き放したほうがよかったのかしら。
 たぶん彼にとってほんとうに必要だったのは救急車以外のなにかだったのだろうし、あいにくわたしたちはそれをも持ちあわせていなかったのだった。結局のところ、それに尽きてしまうのだし、それは筋違いのサイレンと赤色回転灯に押しつけてしまうしかなかったのだった。
 まあ、これでわたしは横浜市の消防にひとつ借りをつくってしまったのだし、いつか自分が救急車を呼ぶか呼ぶまいか迷うことがあったら、その一回分は呼ばない方でことをすすめるということでひとつ勘弁してほしいのだけれども。

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