さて、帰るか。

 あの3月11日から1年経ったらしいが、特番らしい特番も見ず……というか、昼の2時頃に起きてテレビをつけたら「電波を受信できません」的な画面。深夜3時くらいまでは見られたのに? と、一応コードのささり具合などチェックするも問題なし。Blu-rayレコーダーも録画番組は見られるし、テレビ本体の方もそのあたりは動く。機器の故障ではなさそうだ。そうだ、今、HDD内蔵レグザで録画している番組が一つだけあって、NHKの将棋トーナメントだ。それがどうなっているか。ちゃんと録れている。羽生善治と畠山鎮の一戦。が、念のため早送りしていくと、30分後から急に画面が真っ黒になってしまった。なにかがあったのだ。
 ……と、出社途中に不動産屋に寄ったらあっさり解決した。午前中、上の階の空室に客を案内した帰りに、ブレーカーを落としてしまったのが原因だろうという。別室からも苦情が行っていたらしい。俺はアンテナや電気の配線のことなど疎いが、どうもそういうものらしい。よくわからないが、上の階のある部屋のブレーカーを落とすと、アパート全体の地デジが死ぬ。
 深夜帰宅してみると、テレビは復活していたし、Blu-rayレコーダーもうなりをあげてアニメを録画していたので安心だ。しかし、上に人が入ったとして、そいつのミスで大事なアニメの最終回を撮り逃したりしたらどう責任をとってもらうのか。
 そんなに大事なアニメがあるの? といわれるとややどうでもいい。むしろ今の関心は石川三四郎権藤成卿が仲良くなれなかったのはどこらへんの違いなのかしらとか、そのあたりにある。いや、それもまったく嘘であって、北一輝の気分でもない。
 大事なのは脳の配線であってブレーカー、国体論よりも我が身の論。3.11から1年経ち、俺の何が変わったかといえば、脳の病院に通うほど希死念慮が強まり、体が動かなくなったりしたことだといえよう。それはあの震災などと関係ない地続きの没落人生地獄。金、金、金さえあれば、金がほしい。ともかく金に困ることに恐怖するのはもう嫌だ。じゃあ金を儲ければいいじゃない。その方策は思いつかない。
 財閥富を誇れども、社稷を思う心なし。昭和維新の歌である。俺は社稷の意味を辞書でひくほどまじめな中学生ではなかったので、「財閥富を誇れども」の逆のなにかが社稷であると、ぼんやりとした社稷感を持っていた。
 もう日本などという国は適当に土を耕して自分の飯だけ作って生きていくくらいでいいじゃないかというような妄念にかられることもある。しかし、村社会のがんじがらめが嫌で財閥の富にぶら下がろうと都会に出てきたという側面もあるだろう(単に貧困が原因というほうが大きいのかもしれないが)し、俺も地縁、血縁、好きなもの同士、あらゆる紐帯をめんどうくさく思うような人間だ。
 まあ、決心してよく死になさい、人に迷惑をかけないように死になさい、というところに思考を凝らして、それでも諦めきれぬ生活への執着の望みを薬物に託して、あと何年、あと何分?

2011.3.12