松下竜一『久さん伝―あるアナキストの生涯』を読む

松下竜一 その仕事〈18〉久さん伝

松下竜一 その仕事〈18〉久さん伝

 ズボ久と呼ばれた一種飄逸の人物の、短かった生涯を逐ってみたい。
 もっとも、彼は平生ズボ久と呼ばれていたわけではない。平生は久さんと呼ばれて同志たちに親しまれた。彼の名は久太郎である。

 和田久太郎が大正史にわずかに名をとどめるのは、一九二四(大正十三)年九月一日に発生した陸軍大将福田雅太郎狙撃事件によってのみである。ズボ久は、この事件によって不本意にもテロリストとしての名を後世に遺すことになった。
 これをテロリズムというのなら、なんという間の抜けた未遂事件であったことか。だが、余人の行為ならとても信じ難いほどのその失敗も、あるいはズボ久ならやりかねないなと思わせてしまうところに彼の飄逸味がある。もちろん、久太郎にとってそれは命がけの狙撃であったのだが。

 というわけで、アナキスト和田久太郎の伝記である。大杉栄まわりの人物の追憶については、同志の一人近藤憲二の回想録の部分を読んでいくらか知っているし、和田久太郎もとうぜん取り上げられていたわけだが、本書はまるまる一冊和田久太郎が主役である。なんとも渋く、贅沢な話じゃないか。まったくすばらしい。そして同時に、大正の労働運動、無政府主義者たちの流れもわかる。メーデーの始まり、足尾銅山八幡製鉄所労働争議、また、全集ではわからなかった、ギロチン社方面の話なども知ることができる。とくに古田大次郎。『死刑囚の思い出』、『死の懺悔』など読んでみなくてはならない。もちろん、芥川龍之介が「和田久太郎君は、この書簡の中に、君の心臓を現している。しかも社会運動家でも何でもないわれわれに近い心臓をあらわしている」と新聞で評した和田久太郎『獄窓から』も読むことになるだろう。

 さてまあ、俺は以前「優雅で感傷的な日本のアナーキスト」とか書いたものだが、果たして本書を読んでなおそう言いうるのか。というと、やはりなにかそういう印象を受けてしまう。若い頃より淋病と梅毒に苦しみ続け、いつも貧しく、同じ病持ちの遊女とどん底の愛を交わし、獄中で縊死する彼の人生を見ても、なお。
 まあ、感傷的というのは妥当な線だろう。彼の、大杉栄伊藤野枝の遺児に対する深い心情、ある同志一家と、とくに子供たちへの可愛がり方など、テロリストなどという言葉から遙か遠いように思われる。そしてまた、野の花だの菊だの猫だのを愛する姿は。近藤憲二は『労働新聞』に古田大次郎の最期をこう描いている。

 古田君が、同志にあてた遺書は次の如くであった。
 同志諸君
 それではこれから参ります。健康と活動を祈ります。
 これは執行五分前、即ち午前八時二十五分に認めたものである。しかも、少しも動じない其の態度は、筆跡の上にも現れているではないか。
 懐ろには犬と猫の写真と、妹さんから送られた押葉とを抱いていた。犬は、江口君の飼犬太郎で、鵠沼にいた頃から可愛がっていたのだ。猫は古田君の家のクロである。ギロチンの上にまでそれを抱いて登った古田君を思う時、僕等は君のやさしい心を思って涙せないではいられなかった。
 棺には古田君の好いていた菊の花が一ぱいに詰められた。棺の傍らにはススキが立てられている。同志のせめてもの手向なのだ。

 じゃあ、おれが優雅と思うのはなんだろう。まあ、おれの中で「優雅で感傷的」がワンセット(おれはわりと既成のフレーズに強いられているんだ! というタイプなので)というのもあるかもしれないが。でもなんだろう、ひょっとすると、松下竜一が冒頭から述べている「飄逸」がそれに近いやもしれん。なんというのか、弾圧や死と隣り合わせながらも、どこか自由さが感じられる。戦後の政治運動について書かれたものの中には、あまり感じられぬ風通しのよさがある。
 しかし、彼は立ち上がり、行動したのだ。文字通りに命がけで、必死にやった。そして死んだ。そこのところが、なんというのか、絶対に忘れちゃいけねえところのように思える。獄中十八年非転向もえらいかもしれないが、やっぱり命がけでやったのがえらいんだ。和田久太郎は法廷でこう述べた。やはり戒厳令司令福田大将暗殺失敗は悔やまれる。

 「僕のこのたびの行為は、僕がつねに抱いている主義思想とは関係なく、一昨年、震災の混乱を利用して、『社会主義者朝鮮人の放火暴動』などという嘘八百の流言を放ち、火事場泥棒的に多くの社会主義者朝鮮人支那人が虐殺されたことに対する復讐である」
 久太郎は立って、犯行にいたる動機を陳述し始めた。数十枚に及ぶ草稿を読み進むにつれて、次第に昂ぶる怒りに声が奮え、いくどもコップの水を飲まねばならなかった。
 震災の混乱の中での亀戸事件(亀戸署に検束された川合義虎、平沢計七ら労働組合の者たち九名が軍隊によって刺殺された)や、検束された社会主義者たちに対する警察でのかずかずの拷問、そして大杉と野枝と橘宗一の虐殺に触れていったとき、聴いていた古田の目頭は熱くなった。背だけを見せて陳述している久太郎もまた泣いているように身体を震わせていた。
 「かくのごとき暴虐! これに対する悲憤! それが凝って以って今回の復讐となったのである。……が、その数多い暴虐のなかにおいても、とくに、吾が大杉夫妻および気の毒でたまらないいたいけな宗坊の虐殺に対する悲憤が、もっとも強く僕の心を動かしたことはもちろんである」

 和田久太郎は死刑求刑され、本人もそれを望むも無期懲役を言い渡され、その後懲役二十年に減刑されながら刑務所で縊死している。死刑求刑時に遺した俳句は以下のごとくである。

 縊れ縊れ南京虫の食らいかす


関連☆彡

[rakuten:takahara:10141724:detail]