たとえば、おれが人を殺そうとするならば

 たとえば、かかったばかりの親のリーチに、一個の手牌が通るかどうか迷うとしよう。ツモってきた牌で自分も高目の手にイーシャンテンになったとか、そういう状況だ。一息おいて卓上を見まわす。親の川を睨みつける。筋だし、大丈夫だと判断して捨てる。「ロン、倍満」などと死刑宣告が下る。血の気がひく。そして迷った瞬間に身体ごと巻き戻って、一瞬でそれを再生し、あの迷いこそが正しかったのだと思い込む。模造の記憶が、あの一瞬が絶対的な運命からのささやかな警告だったささやき、それを己が限られた理性のようなもので裏切った報いと感じる。通ると判断したのではない、通って欲しいという欲が出て、その欲に罰が与えられたのだとかんじる。その時、たとえその牌が通っていたとしても、己が限られた理性の中でたまたま運に恵まれただけということは感じない。おれは映画『ジャッカルの日』の分かれ道が好きだ。
 自転車操業というのは、車道を自転車で漕ぐよりも、さらに何倍もの警戒心が必要だ。たとえば、初取引の相手、規模は大企業といえないながらも、決して小さくはない。もしそんな場合、とりあえず、おれはおれの検索能力でネットにあたる。わりと知名度のある企業であることを知るかもしれないが、よくない材料がこれでもかというほど見つかるかもしれない。あるいは、打ち合わせに行った人間が、巨大匿名掲示板に書き込まれたいくつかの悪評が本当であったと目にしてくるかもしれない。そうなると、さすがにまずいと感じて、ある帝国からデータを取り寄せてみたりするかもしれないし、そのあまり芳しくない評価を目にするかもしれない。しかし、「但シ、目下ノ処支払ヒ二滞リナシ」という一文が目に入るとする。相手のやっている商売というのはいかがわしいと感じるし、自分がそれに乗るかどうかと言われれれば絶対にノーである。おそらくあれやこれやの不祥事企業、倒産企業の同類にしか思えぬ。巨大な自転車かもしれない。しかし、客としてこちらが商品を提供する分にはどうか。吹けば飛ぶような零細にとって額は大きいが、向こうにとってはたいした額ではないかもしれない。
 まあ、おれに決定権はないとしよう。ただし、おれは「本件は革命的警戒心を要するものにて、公官庁及び財閥系企業との取引と同視すること努々避けられたし」と決定権のある人間に申し送るだろう。手を打っておくべきだと言うだろう。が、結局、どこか大丈夫なのだろうというところで、真になんらかの担保となるべき手筈を取るところまで見届けなかったとするとしよう。
 その結果が「ロン」。いや、とりあえずはロンに限りなく近いブルー、だとしよう。いや、グレーゾーンか。まあ、ほとんど黒だとしよう。おれは数々の引き返せた道を思い浮かべ、結局は絶対的な運命のようなものから差し出されたささやかな救いの糸を己が欲目で断ち切り、自分から地獄に落ちたのだと感じるだろう。あるいは、世間から見てやや真っ当とは言いがたい商売に直接ではないにせよ加担してまで目の前の食い扶持に食らいついた道徳の罰であるようにも思うだろう。
 ただし、そこには麻雀とは違って、相手への怒りというもの生じるに違いない。こちらはきちんと働いてきたのだし、わりといい加減な仕事はしないでやってきたし、今回もきちんと働いたのだし、その結果の正当な報酬を得られないというのは納得しがたいように感じるだろう。仮に相手が倒れたのだからといって、その巻き添えで倒れて、お互い大変ですね、などと言うわけにはいかないだろう。
 むろん、こちらも底辺で自転車を漕いでいるのだから、他人に迷惑をかけているに違いないし、倒れるということはそこでもうまったく必要とされていない迷惑なものであったというだけであって、おれ個人についてもこの世に生存する価値がないというジャッジメントがくだされたということに他ならない。
 蓄えもなにもないおれが放り出されて行き着く先は、自死か路上か刑務所か、この三択以外には存在しない。おれはおれの性質から二番目はないと思っているし、畢竟、一番目の選択肢に落ち着くと平素考えて生きている。しかし、怒りというものが芽生えると、ここで俄然三番目の選択肢に意識が行く可能性は高い。下流とはいえ生きているおれの生活、人生を壊したのならば、同じもので贖わせるしかないだろう。そのようなものは殺してしまうしかないだろう。
 そうなると、おれの頭の中は、かつて自死への強迫観念が頭を占めたときと同じく、「殺すしかない、殺すしかない、殺すしかない……」のビートがゆっくりと、ときには速く刻まれることになるだろう。思考のリズム隊がバックでそれを奏で続けることになるだろう。ふと部屋の座椅子に座り、お気に入りのテレビ・アニメなど見ていてつかの間、自分がひどく非現実的なことを考えていると思うかもしれないが、お気に入りのテレビ・アニメが終わってしまえば、やはり殺すしかないのである。
 仮にこのような状態に置かれたとしても、おれは人を殺したことがないので、まず殺し方がわからない、というのは認めなくてはならない事実である。また、第一にいったいだれを殺すのか決めなくてはならない。だいたい面識どころかメールのやりとりすらない。
 まあ、おそらくは一番えらいやつということになるかもしれないが、担当者でも受付でもなんでもいいのではないか、と考えるかもしれない。しかし、一番えらいやつが一番の金持ちである、あるいはあったのであろうし、ともかく一番おもしろくないのは一番えらいやつなのだから、責任をとってもらわなければならない。人間は金がなければ生きていけないし、そのために労働などしなくてはならないが、その労働を裏切るやつはやはり殺さなくてはならないのではないか、などと考えるだろう。
 よろしい、仮に狙いは決まったとしよう。しかし、相手はどこにいるのだろうか。殺し屋を雇う、などというのは全部やってくれそうだが、まあそんな伝手もないし金もない。当たり前だ。それよりも、もとよりおれはドヤのじじいと肩がぶつかったことが原因くらいの喧嘩で殺されたりしたいのだし、あるいは殺し合いがしたいと思っているのだから、自分でやるべきだというふうに思うだろう。何ごとも、自分でやるべきなのだし、居所ぐらい見つけなければならない。おれは探偵でもないので、人探しなどしたことはない。とはいえ、例の元官僚殺しのようなやつですら、どうやってか家を見つけることができたのだから、なにかしら方法というものはあるに違いない。あるいはある帝国になにか示唆するものを見出すことができるかもしれない。
 しかし、見つけたところで、どうやって実行するというのだろうか。やはり鉄砲など持っていないし、チェーンソーや高枝切りバサミのような近頃流行りの武器も持っていない。まあ、高枝切りバサミくらいは買えるかもしれないが、使いこなすのは難しそうである。やはり古来より一般的な包丁が素人向けなのかもしれないが、なかなか刺殺というものもうまくいかないらしいし、アマゾンで買った金属バットでもなんでもいいが、撲殺の方が簡単かもしれない。火をつけて焼き殺してしまうのも悪くはないが、やはり手間取りそうな気もする。このあたりは十分に調べ、できるだけ成功に近づける必要があるだろう。
 いずれにせよ、仮にそういったことを考えるとすると、わりと綿密に計画を立てる必要があるだろうし、そうとうに面倒くさいようにも思われる。かといって、怨恨というストレートな事情で一人殺すくらいのことが自分にできるのか、できないのかというあたりは気になる話だ。あんがいやれる能力があるような気がしないでもないのだが、とんだ勘違いかもしれない。このあたり、わりと自転車で遠乗りするような感じで、調査、立案、準備、実行できてしまうような気もするが、まったく荒唐無稽の妄念のようにも思われる。
 まあ、このようなことを書いている時点で、仮にそのような時点でこのようなことを考え書いたとしても、おそらくは同じように荒唐無稽が己がうちで優位を占めるに違いないのであろうと想像するのである。ただし、絶対に殺さなくてはならないというビートは刻まれ続けるし、それは精神科医で洗いざらい話して強力な薬物で解決することになるにちがいない。
 しかし、仮にそのようなことになったとしても、まずは当初約束が果たされるように、おれが担当となって、不動産屋相手にやったように改めるまで入れつづけることからはじめるべきだし、考えうるあらゆる方策をとって、同じ立場に居る業者を出し抜かなければいけないし、かといってふらふらしている大きな自転車をうっかり倒してしまうようなことがあってはならないだろう。いや、仮にその大きめな自転車が評判というものの一バランスで成り立っているとしたら、指で押しただけで倒れてしまうという、そういう類のものであるとしたら、だ。それが情報社会であるということかもしれないし、一方で転んでしまったらこちらなど問題にならないだろう。だから殺さなくてはならない、ということになるのかもしれない。
 まあ、仮にそんなことになったら、とりあえずは改めるまで入れるしかないだろうし、結果如何によっておれは殺さなくてはならないのだろう。まあ、ともかく、29日までに入金することだ。

関連☆彡

……結局、自殺願望だか希死念慮だかはダイエットの中止と薬でコップの底の方に沈めただけで、かき回せば浮いてきて混ざりあいもしよう。また、それを形作る強迫的な性質というのは脳の欠陥だし、根本的に治ったりはしないだろう。だから、仮に上のようなことをいずれ考えることがあるかもしれないということだ。

……おれは相手が嫌がりそうなことをいろいろ考えるのはわりと好きだ。あと、すぐに殺すか殺されるかだという極端なところに思考が走り、それを口走るのは、われながら父によく似たものだと思っているが、先天的なものか後天的なものかはしらない。