東アジア反日武装戦線“狼”とわたくし

 ■父方の祖母の姉の夫が三菱重工爆破事件の直接の被害者の一人である。ビルに入ろうとしたところで爆発、頭部に大ダメージを追う。このとき、ビルまで送り届けてきたお付きの運転手が機転を利かせ、すぐさま車に運ぶと、警察病院に直行したという。早急な手術で一命を取り留めたものの、術後しばらく自分の住所についてかつての場所しか言えず、しばらくの間家族は連絡を取れず、爆発事件で行方不明ということでたいそう心配したそうである。ちなみに、父方の祖母の姉の夫の人は山本五十六の血統的な甥にあたり、官僚として田中角栄に引き立てられてなんとか省のなんとか次官まで出世したあと、三菱重工天下りしていたそうである。だからお付きの運転手などに送迎されていた次第である。なお、これも一種の家族内神話のようなものであって、何割増なのかは知らない(角栄と出身地的には平仄が合うがね)。

今回のダイヤモンド作戦は、三菱をボスとする日帝の侵略企業・植民者に対する攻撃である。“狼”の爆弾に依り、爆死し、あるいは負傷した人間は、『同じ労働者』でも『無関係の一般市民』でもない。彼らは、日帝中枢に寄生し、植民地主義に参画し、植民地人民の血で肥え太る植民者である。

■ひとつの小さなころの思い出がある。うちの隣は空き地らしい空き地で、大きな椎が一本生えていて、ドラえもんみたいに大きな土管も数本あった。幼稚園のころか、幼稚園に入る前か。ある雨の日だった。そう、雨は降っていたと思う。おれは雨合羽を着て、少し大きめのミニカーを泥んこの道や水たまりの際を手で走らせて遊んでいた。ふと気づくと、傘をさした人の女性が傍らにいた。セーラー服か何かを着ていたかもしれない。人見知りのおれではあったが、西鎌倉の親戚のお姉さんであることはわかったので、挨拶くらいはしたかもしれない。その後しばらく、彼女は何も言わずおれが遊ぶのを見ていたと思う。おれは夢中でミニカーを悪路に突っ込ませ、未踏のジャングルの中を当てもなく走らせていた。

■その後、幾度か顔を合わせることはあったが、やがて疎遠になった。姉妹を連れて正月の挨拶に晴着などで訪れることもあったが、化粧っ気もなく、どこか質素で淋しげなところがあった。その「お姉さん」は、父方の祖母の兄の娘である。父方の祖母の兄は「花岡作戦」の標的となった企業の重役である。のちに知った話では、父方の祖母の兄の夫人とその娘三人はすべて熱心な共産党員となり、鎌倉市長選の革新系候補の支援などにも積極的に関わっていたという。姉妹と父親の関係はすこぶる悪かったという。おれは革命運動に身を捧げる女性のイメージのいくらかを、化粧っ気の薄い、髪をうしろにひっつめた、あの顔に重ねあわせることがある。

鹿島建設は、植民地人民の生血をすすり死肉をくらい獲得したすべての資産を放棄せよ。

■父は全共闘世代であって早稲田で旗を振っていた人間である。父方の親戚筋とはほとんど関係を持とうとしなかった。だいたい最初のエピソードが祖母の口から語られようものなら、どうなるかわからぬ。おれはだいたい直接か、母経由で聞いてきた。また、「日本人からデモや反抗精神を奪ったのは警察でも自民党でもなく共産党である」と、よほど民青に嫌な思い出でもあるのか忌み嫌っていたので、やはり西鎌倉のお姉さんたちとも相容れるところがなかった。

■おれが高三くらいになって予備校に通い始めたころだった。河合塾などはわりとそういう色合いが強いらしく、講師の一人がやはり早稲田出の全共闘世代の思い出話に脱線などしたので、父にちらりと話を振ってみたことがある。「そいつは何派だ?」などと逆に尋ねられるも、おれは当時(も今も)そのあたりについてはよく知らないのでそう答えた。逆にあんたは何派だったのか? というようなことを聞くと、「ノンセクト・ラディカル」という言葉が返ってきた。しかし、今にして思うがあんたの恩人であり仲人は今でもいくらか名の知れている元革マルじゃないのかな。でもさ、ガキ大将自慢といっしょで、「自分の入学式の外でアジ演説をしていた」とか、おれはあんまり信じていないんだよ。

■インターネットを使い始めたころだった。酒鬼薔薇聖斗の実名や顔写真みたいなところから、企業サイトみたいなもの以外のネットがあると知ったころ。一種の共産「趣味」のサイトなども見ていて、「東アジア反日武装戦線」の支援者のサイトの存在なども知ったのだった。そのころのおれといえば、小林よしのりなぞ読んでいたし、それ以前に「なんで左翼の子が右翼に」などと親父に言われるような風でもあって、そのサイトを見たときも「なんじゃこりゃ」と思った。こんだけ殺しておいて、死刑反対はねえだろう、みたいな思いがまずあった(青酸カリを常備していたり、自殺者が出ていたことなど知らなかった。当時はウィキペディアなんて便利なものもなかったしね)。それに、日本人が「反日」言って、中国人や朝鮮人アイヌ人の代わりに(?)やるのか、よくわからなかった。あと、おそらくは仲間同士であろうに、やけに強烈な言葉の応酬というか批判文のテキストなぞも目にし、そんなものも初めて見るのでなにかもうわからんし気持ち悪いと思った。このあたりは記憶があいまいなので、たしかにそこで見たのかどうかわからないが、少なくともそういう印象を残すなにかはあった。

■まあ、その一方で「趣味」の方に興味をもって、いくらか非合法文書、それこそバーヨの『ゲリラ戦士のための101問』とか通販で買ってみたりしていたのだけれども。それこそ『腹腹時計』みたいな。でもまあ、基本ネトウヨだったな。ネトウヨという言葉はなかったが。でも、かといって今のおれはなんだろうね。ネトウヨという気もしないし、はてサでもないだろう。ノンポリかね。

■それでこのたび、もうあれから10年以上経つのか、松下竜一の『狼煙を見よ 東アジア反日武装戦線“狼”部隊』と鈴木邦男の『腹腹時計と〈狼〉 〈狼〉恐怖を利用する権力』を読んだわけだが。読んだわけだが、三、四日経ってしまって、しかも二冊たて続けに読んで、なにか個人的な話から書き始めてしまったのだが。

松下竜一はこれまで数冊読んできたが、おそらくは『豆腐屋の四季』(まだ読んでいないのでしらんが)の著者的な部分ではないところのものばかり読んだといっていいかもしれない。そして、そのどこにもどこか小市民的な自分と描く対象であるところのテロリストとの噛み合わぬところというものがにじみ出ていて、またそこがおもしろいといったらなんなのだか。ただ、その対象について、公権力やマスコミが「キチガイだ」、「大悪人だ」と切り捨て、書き立てていくところに、彼らもまた人間であるという、そういう異議申立てのようなところ、力強い眼差しがある。それは読んでいて信頼を感じるところではあるが、一方で、主義者から見たら「日帝小市民的!」と批判される類のものであろう。

■ただ、松下自身も闘いに身を投じた人間である。著者略歴やウィキペディア程度でしか知らないが、早くから反公害、反原発の活動をしていたのである。いや、反原発の前に、反火力発電所建設運動をしていたのだ。ちょうど、狼の爆弾闘争と同じ時期に。

 開発期待の地方小都市での運動は孤立していかざるをえなかった。昨日までの『豆腐屋の四季』の模範少年はあっ言う間に「市民の敵」とされ、この町から出ていけという声を浴びせられることになった。

 確かに私達は爆弾を仕掛けたりはしなかった。だが眼前の沖で傍若無人に捨石を続けている工事船に対し、岸に立ち尽くす私は幾十度怒りを込めて仮想の銃口を向けたことか。少数で無力な私達を取り巻く圧倒的な機動隊に対し、私はマイクで叫びを投げつけつつ雨とくやし涙で頬を濡らしていた。
 「今薄笑いをしているお前たち! お前たちはそれでも人間の心を持っているのか。こんな光景を目の前にして、お前たちに心の痛みは少しも湧かぬのか。必死に叫んでいる私たちを薄笑いするお前たちを、もはや私は人間の仲間だとは思わぬ。お前たちはそうして笑っているがいい。やがて歴史がお前たちを裁くだろう。……私は……私は、今日この豊前海のくやしい光景を一生忘れないだろう」
 あのときの私の激情から武器を持つまでに、ほんの一歩の距離だったかも知れぬと思うのだ。ただ、それはいまに至って気付くことであり、1974年8月30日にあっては三菱重工爆破事件は自分には縁のない過激派の凶悪極まりない犯行以外のなにものでもなかったのだ。

■その一歩の距離を隔てるものはなんだろう?

■ところで、筆者が「自分にはこれ書けるんだろうか?」みてえに思ったって書いてるところがあって、それはメンバーや支援者間で取り交わされる苛烈な批判の文章だったというが、おれがいつかインターネットで見て辟易したようなあれだったのだろうか。よくわからない。ただ、東アジア反日武装戦線はそれまでの新左翼とは違い、内ゲバご法度、去る者は追わずのようなところがあったんじゃなかったのか。

■して、一方で『腹腹時計と狼』は、ある意味でプロ目線の本だ。さらには、事件との時間的な隔たりもずいぶん違う。一斉検挙が1975年5月19日、『腹腹時計と狼』は1反刷発行が1975年10月15日とある。『狼煙を見よ』は11年後の1986年に発表だ。だからかどうか、まだまだ憶測で語られるている部分も多いし、そのせいかどうか「虹作戦」についての言及もない。ただ、一方で、当時の報道の生々しさがよく伝わってくる。今で言えばメディアスクラムとでもいうべきか。そして、その背後にあるのは、副題にある「〈狼〉恐怖を利用する権力のやり方」だ。サンケイ新聞とかいうのはとくにそういうところがあるというのでご用心。

■が、じゃあ朝日がどうだったかといえば大差ない。また、新左翼共産党も痛烈に東アジア反日武装戦線を批判する左右タッグの袋叩きと言っていい。そんな中で、狼に共鳴するところ多かったのがむしろ若い右翼たちだったというのがおもしろいといったらなんだろうか。「腹腹時計」のマニュアルとしての具体性がうけたのもあるが、一方で命がけで落とし前をつけようとしたところへの共感、共鳴があるという。

■しかしまあ、これほどの事件となると、背後に黒幕がいたのではないか? 韓国やソ連は絡んでいないのか? 警察のスパイが入り込んでいたのではないか? 自殺というのは謀殺ではないか? などと、あちらこちらの新聞や週刊誌が書き立てる、騒ぎ立てる。まあそんなものだろう。

鈴木邦男のスタンスとしては、犯人たちは真面目すぎたのだし、周囲の人がいうようにみないい子であり、いい人であったろうという。新聞が「腹腹時計」に記されているゲリラ戦士の偽装にすぎない、とか、単なる爆弾魔という評価には与せぬというところである。ただ、過度の反日教育が彼らをしてそうさせてしまったのだ、という。とはいえ、花岡事件などきちんと取り上げて紹介している。というか、「腹腹時計」のネタ本指摘から、左右各論の引用から、なんというか事件から短期間で出た本としてはすげえなという気がする。

■そんな中に、「赤旗」の埴谷雄高批判というのが出てくる。埴谷雄高反日武装戦線を評価するような発言をしていたというのだ。なんと、まあ、やっぱりな、とつい最近埴谷の政治論集などつらつら読んだおれは思う。埴谷はこう言ったという。

 あの人たち(斎藤たち)の世界は狭いが、結局僕と同じともいえるのですね。僕は人を殺すために爆弾をつくっているわけじゃなくて、人の胸の中で何ものかを爆発させようと思って一生懸命考えている。似たことをやっているのですね。やはり、ある種の精神を圧殺し、ある種の精神を解放しようと思っているわけです。そして、あの人たちは間接的にでも人を殺したら、自分をも殺さなければならないと思っていたわけですね。これはいいことだと思いますよ。

■これに対して、鈴木邦男はこう述べる。

 「人を殺したら自分を殺さなくては」、という論理、否倫理観は、もともとは右翼テロリストの倫理観である。

 そして引用するのが、朝日平吾の「死の叫び声」であり、のちのちまで右翼の行動指針となりバイブルとなったというではないか。いやはや。

■しかしまあなんだろう、一人一殺そして一死。これはなにかだれに影響を受けるでもなく、いつの間にか自分のなかにあったようなことのようにも思える。たとえば、東アジア反日武装戦線も、皆が青酸カリ自殺に成功していたとしたら、初めて知ったときに嫌悪感や忌避感を抱かなかったのではないか? とか思ったりする。

■じゃあ今は? というと、やはり変な倫理観みたいなものはある一方で、「実際にやったやつはえらいんだ」という妙な価値観が働いて、「いいことですよ」と思うわけである。

■が、注意しなくてはならんのは、おれが共感を抱く「やったやつ」は宅間守だったり、こないだの大阪のやつまで含まれてしまうのであって、思想も大義も落とし前も真面目さも、なーんにもない。そのことを精神科医に話した結果、「副作用があるから、あなたにはSSRIは出せないな」と診断されるたぐいのキチガイだということだ。

■考えてみれば、中学生のころはよく新書など読んでいたが、いかに731部隊がひどいことをしたかという本を読んでも、「この石井式陶性爆弾とかいうのでアメ公どもたくさんぶっ殺せればよかったのに、惜しいな」とかいう感想くらいしか出てこなかったし、なにか人間として大切な部分が欠落しているとしか思えない。というか、その正直、南京大虐殺にしても、必死にそれを否定しようとする右翼とか見ても「なんで否定する必要あんの?」とキョトンとするというか、またそれは心ある人達の反省や実証や主張とは程遠く……。今のところも三つ子の魂百までというか、「狼もだらしない、ビビって三菱以降の爆弾の威力弱めてんじゃねえよ」とか……。いやなんつーか、単なるサイコパス

■いや、まああんたの隣にはそんな人間もいるんだよ。うん、ここからは薬物とおれの脳内伝達物質の領域の話だ(とりわけここ最近は脳内の宅間守濃度は高まりすぎている。29日までにきちんと入金することだ)。しかし、安心してほしいのは、おれは根っからの算数と理科の落ちこぼれだから、セジット爆弾も細菌兵器もサリンも製造できんということだ。まさに天の配剤。これで破滅志向が他罰的なものでなく、自罰的なものとして働いて一死ひとつ残せたら上々だろう。それじゃあ。