島尾敏雄『その夏の今は | 夢の中での日常』を読む

……昨夜も先任将校のS少尉が、特攻出撃の決行を礼賛する口ぶりを示したとき、「もしなにごとかを決意した者なら、きっとなにも言わず黙っていてやるだろうな」などと言って彼を黙らせた。私のことばには、どことなくわながひそみ、そこにはまりこめば、応答のしようのない場所が待ち受けているふうで、私はそれを大胆に使いだした。
―「その夏の今は」

 おれは7年(!)前にこう書いた。「魚雷艇学生」の感想である。

この『魚雷艇学生』は連作の短編集であり、一冊の長編として読んだら尻切れトンボの感は否めない。ただ、その後についてはこれより前に書かれた作品に遡ることによって追える。これはもう追うしかない。

 どこに向かって追っていたのか、今さらながら「これより前に書かれた作品」に立ち返った。「出孤島記」、「出発は遂に訪れず」、「その夏の今は」……。二百三十キログラムの爆弾を装着したモーターボート「震洋」。加計呂麻島の第18震洋隊隊長・島尾敏雄大尉の私小説である。タイトルの通り、「出発は遂に訪れず」(訪れていたらこの一連の作品も『死の棘』もなかったわけなので当たり前なのだけれども)、終戦間際の出撃命令、その取消、そして終戦そのあたりの話なのである。
 なんというのだろうか、冗長というと悪い響きがあるが、なんというかそういう印象があった。「魚雷艇」はもっと切れていた印象があった(が、古い話なので……。『死の棘』にいたっては20年前に読んだとかいうレベルなので「すげーおもしろいっすよ」とはいえるが、それ以上なにもいえねえ)。ただ、その重苦しさというか、細かさというか、そのあたりがじっとりと来るところがある。
 ともかく、ただ死ぬ方へ死ぬ方へという中にあって、ある日訪れる終焉。生への回帰、日常への回帰。ただ、そこに手放しの喜びが現れるわけではないというリアル。特攻が消し去ってくれると思っていた女との逢瀬、怪我人を出さず危険な爆弾を武装解除すること、特攻強行(上の「特攻出撃の決行を礼賛」は「出発は遂に訪れず」に描かれたやり取りで、その「決行」は宇垣纏の『私兵特攻』である。加計呂麻島にも伝わっていたわけだ)を主張する人間がいたらどうする? 緩んでくる規律、士官としての責任、地元住民との折衝……。
 死の際というか、ほとんど死んだ中にあったなかから解放されながらも、なんというのか、日常が覆ってくる感じというもの。そして、それを最初に引用したように、自らをも冷静な目で見る著者。
 まあ、それでも、やはりなんといっても女との関係のところになにか隠微ななにかがあって、その暗さ、重さというようなもののところがなんともいえん。そして、その隠微で淫靡なあたり、ずんとくる淫夢のようなあたりは、この文庫の後半を構成する、夢物の作品(つげ義春を思い浮かべずにはおられない)にじっとりとにじんできてもいる。目から覚めたとき、なにかしら気配でしか残っていない、ずーんと重苦しい性的な印象。射精も、勃起も伴わないような淫夢の感じ、そういうのがある。そこんところがなんともいえぬ。
 いずれにせよ、他人の夢にも、一度定められた死から生きてもどってきた人間にも、なんともいえぬ。そしてまた、いくらそのような死について読んだところで、おれにはおれのいかんともしがたい生があってなんらかのかたちの死がまっていて、やはりなんともいえぬ。それだけのことである。

魚雷艇学生 (新潮文庫)

魚雷艇学生 (新潮文庫)

死の棘 (新潮文庫)

死の棘 (新潮文庫)

 これは3年前に読んだか。