一周忌法要へ

 昨年イオンで買った喪服のサイズは問題がなかった。しかし、ネクタイが見当たらない。しかたないので、何年前に買ったかもわからない、わりと渋めのストライプの入ったヴィヴィアン・ウエストウッドのネクタイをした。昨年ドンキで買った黒い靴も見あたらない。しかたないので、それこそ本当に何年前に買ったのか、いや、買ってもらったのかわからないリーガルの靴を履いた。黒ではなくてダーク・ブラウンだ。軟骨のピアス2個は外さないでいいか。本当に身内のみの一周忌なんてこんなもんでいいだろう……。

 チャリでは行かない。車に載せられて行った。おれは病気と薬で車を運転するのは好ましいことではない。
 法要の控え室みたいなところに本棚があって、何冊か仏教本もあった。浄土真宗の寺なので、曽我量深対談集なんてのもあった。引用部分の「鈴木」は言うまでもなく、鈴木大拙である。ほかに本棚で目立っていたのは創価学会批判本だった。そんなものに興味はない。

鈴木 それで私の聞きたいのは、信ずるという時に、無上の智慧を向こうに置くのか、それともどうなるのか。
曽我 それはあまあ一応は向うに置かなければいけません。
鈴木 向うに置くのですか。向うに置くときに、そういうものが向うにあるということがどうしてわかるのか。
曽我 それはまあどうしてわかるということはわかりません。それには教えというものがあります。
鈴木 教えがあってもだね。その教えが本当であると信ずるものがどこから出て来るのですか。
曽我 どこから出て来るかということは決ったものではありません。

 これは真宗の「信」を外から見る立場として、鈴木がジャブを打ってるところである。関係ないが、ジャブを打っているとシャブを打っているでは大違いだ。まあいい。鈴木は禅の人であって、しかし一方で真宗に、妙好人についてもいろいろと書いている。

 法要では冊子が配られて、「仏説阿弥陀経」を唱和する。母方の祖父母の……これで三回目か四回目か。おれはなぜ「弥陀の誓願によって救われる。おしまい!」ですまないのかよくわからない。さまざまな菩薩の名を挙げ、西方浄土を描写し、ガンジス川の砂の数ほどの仏がなぜ必要なのか……。

曽我 地獄へ行ってもかまいません。
鈴木 真宗ではそういうことをいう。ちょっとおかしいのじゃないですか。
曽我 おかしいけれども、これが本当でしょう。大師聖人の仰せであるなら、たとえ地獄へなりとも後悔しないと親鸞は言われる。
鈴木 私が反対したいのは、誰それが言うからこうだとすることである。それが嫌いである。聖人が何と言おうが、親鸞聖人が何と言おうが、何でも言え。私ゃ私の行くところへ行く。

 このあたりになると、鈴木が挑発的ですらあるし、あえて極端なことを言って立場の違いをはっきりさせようというところか。禅のアナーキー、あるいは個人主義のようなところ、論理的なところ。

 ちなみに、まえの部分と直接つながってない引用なので。念のため。なにが「そうなんです」なのか気になれば、本を手に取れ。

曽我 そうなんです。けれども、けれども、それを言わぬのが真宗である。同じことだと言えばそうなんですが、それを言わぬところに感情の違いがある。心持が違うと言葉も違う。だからおっしゃる意味はよくわかるし、それが間違いだともどうとも言わない。言いませんけれども、禅というものはそういうものかなあと思う。
鈴木 あなたのようにわかるとおっしゃる人は、真宗にはなかろうと思う。どうでしょう。
曽我 真宗は、禅の人の話がよくわかります。わかりますけれども、そう言うのが禅であって、そう言えないところに阿弥陀の本願がある。

曽我量深対話集

曽我量深対話集

 あと前に、この二人に金子大栄加わった対談本とか持ってるし、この対談集も持ってるかもしれない(とかいって押入れ漁ったら本の雪崩が二度起きた)。しかし、3年前は図書館とか無縁と思ってたな、心底。

 結局のところ、不立文字の禅が「言い過ぎ」で、真宗は「言わなすぎですな」、笑い、というところで対談は終わっていた。まあ、禅「学者」であるところの大拙が禅すべての代表であるわけでもないだろうし、浄土真宗にもなんとか派があろう。ただ、どちらかというと真宗に関する自説を開陳する大拙に対し、のらりくらり、とは言わぬが、「はっきり言葉にしてしまうと違ってしまうんだ」というところで、おおむね了解しつつも外すあたりのやり取りというのは、わりと噛み合っていないようでいているような、不思議なバランスではあった。
 ……というようなことを、おれはあまり読経の間、新聞の投書を題材にした坊さんの説法の間、久しぶりにアルコールを入れてむしゃむしゃ肉を食っている間、考えていたり、考えていなかったりした。ところで弟の姿は見当たらなかった。

 母は「浄土真宗が一番楽ちんだからいいわ」というが。

 まあ、おれもあんまり異論はないね。

 ただ、もう法要であるとか、墓であるとか、そういったつながりみたいなものにはどんどん縁がなくなっていくのだろう。

 そうなると、ただひたすらにインナーに降りていって、なにかを探すことになるだろうし、そのときに杖なりなんなりになるなにかが必要になるかもしれない。

 それがある方便をもってあらわれた仏教やもしれぬし、あるいは西洋哲学、なにかの一神教、完全な無神論……。それ以前に、そんなことにうつつを抜かす暇があるような人生を送れるとでも? 肝要なのは見極め、いや、見切ることだ。見切り野菜のように、自分を見切ることだ。まだ食べられるうちに、まだ戯言にかまける間のあるうちに。


>゜))彡

「信」の構造〈1〉仏教論集成

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最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)

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新編 東洋的な見方 (岩波文庫)

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